シルバーバーチの霊訓


このページはシルバーバーチの読書会で、本を読んでも良くわからないという方のために本に入る前の
 テキストとして使わせていただいています。


スピリチュアリズム・続スピリチュアリズム入門抜粋

スピリチュアリズム・サークル「心の道場」様からの記事を抜粋させていただいております

                            
                                    神とは

霊界では神の存在を疑う者はいない。地上人の中で誰ひとり、空気の存在を 疑う者がいないのと同様である。
それは
信じるとか理解するといった次元を超えたことである。

地上ではよく「私は神を信じています」と言うが、その確信は実に頼りないものである。地上人の神を信じるという実情は、「神がいるということを自分に納得させる、思い込ませる」という程度のものなのである。

が、霊界での神に対する認識状況は地上とは全く異なっている。そこでは信 じるという次元をはるかに超えて、常にストレートに実感を持って神が知られている。神の実在の確信は、霊界の住人にとって常識以外の何ものでもない。

さて、そうした霊界人は、具体的にはどのように神をとらえているのであろうか。これから、高級霊訓によって示さ れる神観を見ていくことにしよう。

ここであらかじめ言っておかねばならないことは、霊界通信は、常に地上の 言語による大変な制約を受けているという事である。霊界人にとって、直感を通じて認識している事実 を地上の伝達手段(言葉)によって表現しようとする
ことは、極めて難しい作業過程をへなければならないことなのである。
言いたいことが思うように言えないということである

さらに伝えようとする内容自体が地上には全く存在しないことが多く、例えとなるものさえ見当たらないのである。
そうした状況のもとで、霊界側では何とか地上人に霊界の事実を伝えようと、大変な努力を
しているのである。 
このように「伝達手段そのものの制約と伝達内容の地上不在」のため霊界を通じて送られる知識には初めから限界があるのである。


その難しさは、いまだわずかな言葉しか理解していない二、三歳の幼児に、何とか大人の社会の仕組みを教えようと いうようなものであろう。また、わずか数十の英単語を用いて、複雑な気持を外国人に伝えようとするようなものだと考えてもらったらいいだろう。

霊界通信は、常にこうした難しい状況の中で進められていることを知っておかねばならない。
それゆえ霊訓を読むわれわれの側にも
知性と寛容さが要求されるのである。

さて霊界通信には、われわれ地上にいる者が最低理解しておくべき神の概念 ”が明確に示されている。
次にそれを整理してみよう。これまで何千年にわたって地上で説かれてきた神の概念はひとまずすべて忘れ、
本当の
神の姿 を新しく知っていこう。新しい神観を、まず自分達のうちにしっかりつくり 上げよう

                                 

               () 神は唯一の存在であり、無形の存在である

地球上の宗教の中には、キリスト教・イスラム教などのような、唯一の神を 崇拝の対象とする一神教
神道・ヒンズー教・古代ギリシャ宗教・古代エジプトの宗教のような、多くの神々を崇拝の対象とする
多神教がある結論を言えば、われわれが崇拝の対象とすべきは唯一の神のみで、多くの神々を崇拝することは間違いである。

多神教では、天使(後述する)や背後霊や他の人間霊を神と勘違いしてきた。天使達の多くが霊的レベル・純粋度 において地上の人間よりはるかに高いため、これらを無条件に崇め祭り上げ崇拝の対象としてしまったのである。

そうした霊的に純粋なものを敬うという心の動機は、それ自体には咎められるべきものはないが、天使やこれら霊界の住人にとっては、自分が地上人の崇拝の対象とされることはありがたいことではなく、むしろ迷惑なことなのである。

彼らも霊界では
唯一の神を崇拝し、この神以外に崇拝の対象がないことを知っているからである。
地上人も唯一の神のみを信じ、帰依すべきであると思っている。

 
これまでの地上の宗教では、神は人間のような形をした存在として叙述されたこともあった。その場合、大半が男性 の姿で描かれるが、神とはそうした形を持った存在ではない。又、地上人の考えるような性別を持った存在でもない。

物質世界に見られる男性・女性(陽陰)のすべては、神から出たものであり神の性別を人間の側からしいて言えば 
「神はすべての陽陰を含む中性体」ということになるであろう。その意味で古代中国思想(陰陽思想)での大極(神・第一原因)についての説明は正しいと言える。


われわれ人間は、自分自身のうちに心(意識)が存在することを自覚している。が、心そのものを取り出すことはで きない。これと同じように、神は形はないが間違いなく存在している。無形の存在として存在していると言える。
 
別の言い方をすれば、神は、宇宙・霊界すべてを包むような広がりを持った大きな心
宇宙・霊界全体を包みこみすべてに遍在している大きな霊・大きな意識体と考えられるのである
 

                      () 神は霊界・宇宙の創造者である

神は、霊界・宇宙・人間・天使・動植物のすべてを造られた方である。具体的にどのようなプロセスをへて、それら が造られたかは、今後の科学が明らかにしていくであろう。

いずれにしても、われわれ人間は、神によって造られた存在であることは紛れもない事実である。

それゆえ簡単に 言えば、神はわれわれの生みの親 ということになる。
『親なる神』ということなのである。そして全人類は『神の子供』であるという事なのである。


こうした創造神に対立する考えとして汎神論的神観がある。

 汎神論では、万物・宇宙イコール神、と考え、宇宙のすべては神の顕れであるとする。
この論理を極端に進めれば 人間も動物も神ということになり、われわれも神の身体の一部、神そのものということになってしまう。

言うまでもなくこうした神の創造性を否定する考え方は間違いである。
神は、霊界・宇宙の万物を造られた
創造主なのである。
 
神がわれわれ人間を創造したということは、親なる神と子供であるわれわれは、別々の存在であるということを意味している。神と人間の関係を、(地上の)母親と赤ちゃんの例えをあげて説明すれば次のようになる。

胎児がお母さんの胎中にいて、へその緒で結ばれ肉体的に一体となっている間は、まだ胎児はお母さんの一部と言える

お母さんが死ねば、赤ちゃんも同時に死ぬことになるからである。しかし体外に出たあとは、母親と赤ちゃんは完全 に別々の存在と見なさなくてはならない。

お母さんによって存在のきっかけがつくられ、お母さんから肉体をもらったがいったん生まれてからは、母親と赤ちゃんは別々の存在なのであるお母さんイコール赤ちゃん、とは言えない


神と人間の関係もこれと同様である。われわれの全ての要素は神によって与えられている が、存在としては別々な のである。神は、行動においても別々の存在であるようにと人間に自由意志を与え、独立した存在とされたのである。

が、汎神論的発想も分からないわけではない。
なぜなら地上にいて深い瞑想中に体験する至福体験では、自分は宇宙そのもの
――宇宙と一つとなったような主観的世界に入るからである。

まさしく神と一つとなったような強烈な感覚の世界に入るからである。
が、それはどこまでも
主観的感覚であり神と一つとなったわけではない。

また人間は将来、進化の末に
ニルバーナに至って神と一つに融合する、という考え方(神智学など)もあるが
これも事実ではない。

人間はどこまでいっても神の子供であって、神とは別々の存在である。 

人間の心の進化に伴い、愛において神とより密接になっていくということである。

インド古代思想(ウパニシャッド)の神観は、典型的な汎神論的世界観(梵我一如)であるが、これなどは、直感と して正しく認識していた神概念を 地上の言葉を用いて表現する際に、言語という物質の制約を受けてしまった結果である

直感としては正しく神をとらえていても、それを地上の言葉を用い、しかも論理性を崩さずに述べようとした結果
事実とは懸け離れた表現をしてしまったと考えるべきであろう。

霊的なものを、物質的表現手段である言葉で表そうとすることは、本来的に無理なことなのである。

                                     

             () 神は人間にとって霊的な親であり、愛なる親である
 
神は単に無感情、無感動で宇宙・人間・万物を造られたのではない。そして現在も、われわれに対して無関係に存在しているのではない。神は愛の動機から霊界・宇宙を造られた。

母親は赤ちゃんの出生を心待ちにし、生まれる前から愛で結ばれている。そして生まれてからは母親は赤ちゃんをかわいいもの、自分の生命の証であり愛すべきものと思うのである。 



神と人間の関係もこれと同じで、根本的には愛情によって結ばれている。その愛はわれわれ人間の側からは直接に感 じられなくとも、神とわれわれの関係はどこまでも愛の関係なのである。


霊界・物質界(宇宙)には神の愛が遍在している。地上人は肉体をまとい霊性が鈍くなっているため
直接的に神の愛を感じにくくなっているが、霊界では神の愛を直接実感できるようになる。


 
                () 神は法則を通じて霊界・宇宙を支配している
 
宇宙の中で神の法則の支配を受けないものは一つとして存在しない。神は法則を造り、すべての秩序を保とうとされ た。ゆえに霊界・宇宙のすべては法則の枠の中で神と係わりを持つようになっている。


法則はどこまでも神の造ったものであり神の属性であって、神そのものではない。法則は神の知性的一面の顕れであり、これを通じて神の知性がいかに優れているかを、われわれ地上人は知ることができる。
まさしく神は
全知全能のお方であることを実感できるようになる。 


霊性が鈍くなっている地上人においても、神の造られたこの法則性だけは、明らかに認識され得る。
神の造られた法則は、地上という物質世界にいながら、直接触れることのできる神の属性である。



宇宙の森羅万象は無数の法則性によって存在可能になり、秩序が保たれている。物質界・生命界の精妙な
法則性
――そこには全体を成り立たせようとする意志(知性)と、それを維持しようとする意志があることを
誰もが認めざるを得ないであろう。

これら無数の法則が単に偶然でき上がった
――何の意志的関与・知性的関与もなく、偶然でき上がったと考えることはできないであろう。


法則は、神が人間を始めとする生命体を造ろうとした思い、そしてそれが、しっかりと存在するようにという神の気持を表すものである。神の思いを実現するための手段なのである。


子供の簡単なおもちゃでさえ、人間があれこれ考え、物質の法則を利用して初めておもちゃになる。もし宇宙の精妙 なシステム・法則性の背後に、神の意志・思いを認めない者がい るというのなら、それは、鉄くずを放っておいたら
いつの間にか精妙なコンピューターが自然にでき上がっていく、と考えることと同じである。

それでもなお神の存在を信じられないのは、単に、自分が神の実在を感じられないことを最大の理由にして、自分勝 手に「神はいない」と思い込んでいるにすぎない。唯物論・無神論を主張する人間の本当の理由とは、単純に神を実感できない霊性の鈍さなのである。唯物論を正当化する論理は存在しない。


神は法則を通じて霊界と宇宙を支配している。その法則の発現の仕方は機械的であり、厳密・厳格で例外はない。
もし例外があるとするなら、神自らが宇宙全体の秩序を崩すことになる。

 

神の法則の厳格性・機械性は、これだけを小さな人間の目から見ると、無慈悲で冷酷な世界だけが存在しているよう に映るであろう。

神は人間を愛もなく無慈悲に支配し、どんなに苦しくても手を貸してくれない というように感じられるであろう。
この人間サイドの狭い視野のため、歴史上、神を信じながら神を呪い、神に反抗していった者がどれほどいたか分か らない。
 

人間はとかく、自分にだけは神の特別の配慮を願うものである。しかし法則による厳格な支配は、全人類が
平等・公平に成長できるため存在しているものなのである。

そこには広い神の慈悲がある
――『すべての法則の背後に実は神の大きな慈 悲がある。法則自体には 慈悲はないがそれを造った神の意志の中には、人間の成長を願う親心がある』


もし自分だけの特別な慈悲を願うような利己性が心を支配すると、神の愛が分からなくなり、法則の冷たい無慈悲 な面だけが常に自分の前面に迫ってくるようになる。
そして、「愛の神などいない!」ということになってしまう。



人間が法則を知りそれに自分が合わせれば、もっとスムーズに成長でき幸せになれる。
が、人間がそれに合わせようとせず特別な慈悲だけを願えば、神に対する不満だけが大きくなっていく。
神に特別な配慮を求めて奇蹟を願ったり戦争で自国に神が味方することや相手に天災を与えるようなことを願っても
それはムダである。



以上が霊界通信によって明らかにされる神の姿である。神の属性は多様にわたるため、神についての説明は無限に為されるが、今のわれわれにとって必要なものは、魂の成長にとってプラスとなる知識である。
霊的な実用知識が重要であって、単なる知識のための知識、観念的知識はあまり必要ではない。

高級霊は、常に地上人の魂の成長ということを主眼に置いて教えを説いている。その意味で前述したような神の正し い姿を知っておけば、霊的歩みをする上での当面の必要な知識を得たことになろう。



ただし、ここでどうしても理解しておかねばならないことは、知識の整理は どこまでも、霊的探険の旅のマップの役目にすぎないということであり、知識という一つの手段で神の表面の一部分を知ったことにすぎないのである。

マップを手がかりに実践し、そのプロセスを通じて神を少しずつ実感する中で、何十倍・何百倍もの神についての
理解が深められていくのである。
マップ上の理解はどこまでも平面であり、霊的実感による神の理解は立体的で無限の深みがあるのである。


              

                幽界


冥府をへていよいよ本格的な霊の世界に入って行く。はじめに赴く世界は幽界である。ここはサマーランドとか
夢幻界とも言われるが、それは、南国の美しい島々のような、そして夢の中のような世界、という意味である。
ではその幽界とは、具体的にどのような世界なのか見ていくことにしよう。


  
T                 地上とそっくりの世界


はじめて幽界に入った霊は、その環境があまりにも地上とそっくりなので一 様に驚く。山もあり川もあり、野原や海や湖もある。村も町も家も、大人も子供も、犬やネコも、地上界にあったものは何でもある。

そして人間はと言えば、肉体を離れても傾向はそのままで、知能・知識・思 想や情緒は以前と全く同じである。地上時代の人格はそのまま保たれる。もちろん身体は手や足があり、地上と何ら変わらない。

一方地上時代、身体的に不具であった者は、ここでは五体満足となり障害や不自由はなくなる。幽界でまとう身体は 霊体であるが、それは肉体よりはるかに精妙で、肉眼では見えず、肉体の手では触れることができない。

幽界のすべての物は、同じ波長をもつ霊体の手で触れれば堅いし、また音を出すこともできる。
水に触れれば冷たさを感じることもできる。ここでは地上の生活と同様、自然の中を散歩して、いろいろな景色を楽しみ、小鳥の声を聞くこともできる。

  
                                    


                             T すべてが地上より美しい


このようにサマーランドは地上とそっくりであるが、すべてが地上より一段と美しく、明るく素晴らしい世界である 空はどこまでも澄み渡り、明るく輝いている。
回りの景色は、地上の最も美しい所だけが寄せ集められているようである。
花々は宝石のごとく輝き、色あせることがない。

小川のせせらぎ、小鳥のさえずりは、地上では聞いたこともないような美しい音色を奏でている。


ここには地上にあった醜さは全く見当たらない、地上の暗さはどこにもない。
また以前、気心のあった友人、愛で結ばれた家族は、再びここで家庭生活を楽しむことができる。
昔かわいがっていた犬やネコや小鳥もいる。


……何とすばらしい、夢のようではないか!」最初だれもがそのすばらしさに感嘆する。
またここには、地上のような夜はなく日が暮れることがない。幽界には地上と同じように太陽があるが
その太陽は地上の太陽より美しくすべての住人は、この太陽から直接エネルギーを受け取っている

地上の日光浴のようなことをすれば、それでエネルギーがすぐに満たされる

もはや肉体はないので睡眠の必要はない。地上での病気や身体の不快感や重苦しさ疲れは一切なく、身体は軽く、風呂あがりのすがすがしさ、爽快感 そのものである。 

   ――死んだはずの人が、もう一度生き返ったという話をよく耳にする      
      (臨死体験)。その体験者の多くが、向こうの世界に行くと、きれいなお花畑があったり
       広い川があった、というようなことを言うが、これらのお花畑や川は、地上に近い幽界でのものである



                                

                   T 思うことが何でもかなう

ここでは老衰はなく、大半の人々は青春時代の容貌にもどり、若返る。また地上時代に憧れていた顔かたちやプロポ ーションがあれば、それはここでは現実のものとなる。
 
――霊媒現象や霊視の際、死んだ時の容貌で現れるのは、地上の人間が認識しやすいように、わざわざそうするので   ある。また自縛霊が幽霊となって現れる時も生前そのままの姿で出るが、これは霊本人が死んだことに気が付い   ていないためである。
 
さて場所の移動はと言えば、「そこに行きたい、その人に会いたい」と思うだけで、アッという間にすでに移動している(テレポーテーション)。地上時代のように歩いて行きたいと思えば、もちろん歩いて行ける。
空を飛んで行きたいと思うなら、空を飛んで行くこともできる。

 
このように、幽界は心で思ったことが、そのまますぐに実現する世界である。
そのため、地上で培った創造力が、その人の環境をつくり上げてしまうことになる。

一度も外国に行ったことのない日本人の回りには、日本風の景色や家屋・町並みができ、外国が好きで憧れていたような人の回りには、そうした好みの環境ができるようになる。

自分が住む家の調度品や家具も、すべて自分の好みのものとなる。
着るものといえば、自分の好きなものを自由自在につくり出し楽しむことができる。

 
                                  


                                T 食べる必要がない

さらに大切なことは、この世界ではすでに肉体はないので、もう飲食の必要はないということである。
が、地上時代の習慣で、いまだ飲食の要求をもっている者がいる。


そうした者は、「あれが食べたい、これが飲みたい」と思うだけで、それが瞬時に目の前に現れる。
だが実際にそれを口にしてみても、肉体のないところでの味覚は何となくサバサバとして味気なく、おいしくない。
やがて食べること自体がつまらなくなり、どちらでもよくなって、飲食の欲求を捨ててしまうようになる。

 
「食べる必要がない、お金も必要ない、ほしい物は何でもすぐ手に入る―― 何とすばらしいことであろうか!」
 
―― 地上時代は、生活のため、食べるために働いてお金を稼いできた。

毎日毎日つらい思いをして働かなければならなかった。地上では、お金や物の奪い合いから、争い・犯罪・戦争まで 引き起こされてきたが、ここでは 一切そうしたことはない。
他人と争ったり、奪い合ったりする必要など一切ない。ケンカなどバカらしくてやっていられなくなる。 

 
思いが何でもかなう世界で、ある者はぬくぬくと何もせずに暮らし、ある者は趣味三昧の生活をするようになる。
またこれといってしたい事のない人は、地上時代と同じ仕事を引き続きする。


一生涯工場で働くことしか知らなかった人は、ここでも相変わらず工場で働く。
地上時代と同じ工場で、毎日毎日物を作り続けるが、しかしやがて、それが何の意味もないことが分かるようになり
バカらしくなってやめてしまうようになる

                               

               T 自分の心がさらけ出される


ここでは、お互いの心は、テレパシーで通じ合う。
言葉は地上の世界における手段にすぎないもので、もはや不要となる。
外国人とも何不自由なくコミュニケーションできるようになる。


それどころか、自分の心の中が、回りの人々に明け透けにされるようになる回りの人に自分の心を隠すことは
できなくなる。幽界では誰ひとり仮面をかぶることはできない。誰ひとりその過去を隠すことはできない。
地上生活につきものの、ウソ・偽善・タテマエは一切通用しなくなるのである。


本心がいつも剥き出しにされるため、偽善者・ウソつきは、恥ずかしくなって皆と一緒に住めなくなり、自らもっと低くて暗い所へ行くようになる。そうして同じような人間ばかりと一緒に住むようになる。


                      


                                T 幽界の生活への飽き

このように幽界は、地上の夢がそのまま実現する世界である。まさに地上の 楽園そのものといってよい。
そして最初は誰もが、「ここに永遠にいたい
……」と思うのである。
ところがやがて、すべての者が例外なく、この世界に飽きを抱くようになる。

 
考えてみれば、幽界で実現する夢はすべて自分の心の反映にすぎない。
それ以外のもの、自分を超えたもの、自分の 考え以外のものは何もないのである。
そこではただ自分自身の世界が展開しているにすぎない。
しかもその全てがあまりにも簡単に実現するので、自分の奮闘・努力は必要でない。


しかし人間は、何でも自分の思い通りになるだけでは満足できない本性を持っている。自分を超えた新しい世界・
未知の世界に挑戦したり、自分が今まで持っていなかったものを造りだすための創造力発揮のチャンスがない
猛烈な不満を感じ、じっとしていられなくなるのである。

人間は常に創造力を働かせて前進することが必要なのであって、それが本性である。
だから幽界が一見楽園のようであっても、自分の世界から出られない限り、やがて誰もが苦痛になっていくのである。


 
                                      


                 T 自分自身でつくり出す心の地獄

ここではああしてはいけない、こうしてはいけないという規則も制限もなく、したい放題のことができる。
守銭奴は大好きなお金が、何の苦労もなく貯められる。
美食家は、終日好きな食べ物を思う存分食べ続けることができる。

いじめや、ケンカ好きは、心ゆくまでそれを楽しむことができる。
セックス 愛好家には、セックスはしたい放題、乱交パーティーなど思いのままである。
彼らにとって、ここはまさしく地上の楽園である。

 
だがこうした住人たちも、やがて猛烈な苦しみを体験するようになる。守銭奴はどんなにせっせとお金を貯めてもそれが全く無用であることに気がつき空しさに落ち込む。

自分の人生が意味がなかったことをイヤというほど知るようになる。美食家は食べても食べても食欲が満たされず、
飽きることのない自分の欲望に欲求不満をつのらせ苦しむようになる。

乱交パーティーも、肉体のないセックスではいつまでたっても満足が得られず、欲求不満のいらだちと苦しみだけが 大きくなっていく。思いのままの手軽なセックスの連続は嫌気だけを募らせる。
しかもイヤな相手が自分を離してくれないので、いっそう苦しみは大きくなっていく。

 
これはまさしく地獄である。自分自身の地上的欲望がつくり出した地獄である。
地獄は神が造ったものではなく人間の心が自分でつくり出したものである。
これまで宗教で説かれてきたような地獄は、実際には存在しない

 地獄とは、自分自身の貧しい心がつくり出す心の状態であり、自業自得の世界なのである。
地上時代に権力や金銭をもっていた者が、こうした世界に多いことは、いまさら説明する必要はないであろう。



                                 


                                  T 進歩への欲求

幽界で生活をするうちに、誰もが例外なくここに飽き、別の世界へ行きたいと思うようになる。
このように神は、幽界で人間の夢を思う存分実現させその夢が本物でなかったことを悟らせ、自然とそこから抜け出すための意欲を生み出させるのである。外からの強制ではなく、自発的に進歩の道を歩ませようとされるのである。

 
進歩したいという欲求が芽生えた時が、幽界を卒業して新しい世界に出発する時となる。
そして再び指導霊に案内されて、次の世界へ赴くようになる


幽界のきわめて低いところ地獄で時を過ごした霊にも、苦しみの中でやがて進歩への欲求が芽生える。
しかしその霊性の未熟さゆえ、なかなか一人で立ち上がる力を持てない。

そうした彼らには、より高い世界からの救いの手が差し伸べられる。
霊界には、地獄にいる住人を救い出すことを
使命として働く高級霊がいるのである。

そうは言っても、本人が「進歩したい」という欲求を持つまでは、たとえ高級霊といえども手を差し伸べることは
できない。長い間苦しみ、その中で進歩への欲求が芽生えた者は、この救いの霊に助けられながら少しずつ進歩 
の道を歩み、次の世界へ入っていく。

また地獄の霊の中には、成長のための最低限の道を歩み直す為、もう一度地上に赴く者もいる。
 

以上が、一般的な人間におけるサマーランド(幽界)での生活である。しかしこの幽界にほとんど留まることなく、 単に素通りしていく、ごく一部の 霊もいる。

生前から霊的知識に通じ、それを実践し、地上にいながら霊的存在として歩んだ者は、肉体を脱ぎ捨てると同時に、
霊界(幽界の次の世界で、霊本来の世界)に直接赴くようになる。

                                     

                霊界

幽界をへた霊は、いよいよ本格的な霊の世界――“霊界での生活を始める。 
幽界では、物質的欲望・物質的好みがすべて実現し、
錯覚の喜びを心ゆくまで満たすことができた。

しかし、幽界はその一方で、それらの欲望が本当に価値あるものではなく、自分がこれから求めていくべきものでないことを、イヤというほど知らされた世界でもあった。


「これまで地上人生でひたすら求めてきた物、今まで最も価値あると思って きたものが、実はすべて空しいものであ る」との認識ができた時、はじめ て物質世界の後ろに覆い隠されていた霊的なものに目が向くようになる。

このようにして霊的自我に目覚め、霊的意識が支配的になり、
霊的新生をするようになる。

ここにおいて初めて『霊本来の世界である
――霊界』での一歩を歩み出すことができるようになるのである。

これが幽界で、長い浄化期間を経なければならなかったことの理由である。
地上生活から引きずってきた物質的欲 望を取り除き、霊的なものだけになっていく過程が、幽界での生活の目的だったのである。


一方そうした一般の人達とは違って、地上時代からすでに霊的な歩み、霊的成長の歩みをして来た人もいる。

地上にありながら物質的なものに心が支配されることなく、絶えず
霊主肉従を保つ努力を重ねて来た人にとっては 幽界での生活は不要である。それゆえそうした者は、幽界を素通りしてその まま霊界に入ることになる。

そして地上でつくり上げた心の成長レベルから、霊界の生活を始めるようになる。

これから、その霊界が、どのような世界かを見ていくことにしよう。

                                 


        (一)霊界は、魂の成長レベルによって界層に分かれている
 
霊界ではそれぞれの霊は、自分の成長に見合った界層に落ち着くようになる 地上ではさまざまな成長レベルの人々 が地上という同じ一つの世界で生活していたが、霊界では各自の霊的成長レベルに応じて別々の世界に住むようになる

界層は低いレベルから高いレベルへと幾層にも連なっているが――ここで勘違いしてはならないのは、それらの界層はわれわれが三次元的に考えるようなものではないということである
――
地上にある建物の上下の階のように仕切られているわけではない。

霊界における一つの界層は、すぐ上の層と下の層と
融合してつながっており、それが限りなく続いている。
明確な境界線はないということである。

またこれまで述べてきた幽界と霊界の間も、これと同様、境界線が引かれているわけではない。
その意味では幽界は霊界の中の最も低い界層とも言える。

 
さらに大切なことは、物質界も含めて、幽界・霊界は、すべて一つの場に存在するということである。
それらの世界はそれぞれ波動が異なる。

波動の違いによって、より
精妙な霊界上層から、最も粗雑な地上界と、さまざまな存在レベルが生じるのである。これらの世界は波動が異なるため、お互いがぶつかることなく同一場所に存在しているのである。

すべての世界・界層は、浸透的に重なりあって存在している。ゆえに幽界も霊界も、われわれのすぐそばにあると いうことなのである。いやそれどころか、われわれ自身、霊体をもった存在である以上、今すでに、幽界・霊界に住んでいると言ってもよい。

ただ肉体をまとっている為、肉体的感覚の支配を受けるようになって、霊的世界が感じられなくなっているだけなのだ 

このように、界層があると言っても、実際には状態の違いがあるということである。
界層とは、
同一場所における状態の異なるさまざまな世界ということなのである。

とは言うものの、その界層に住んでいる者にとっては、現実に生活する世界は、やはり自分の界層だけなのである。
常は他の界層を見たり触れたりすることはないので、自分の界層内だけで生活しているということになる

さて当初は、霊格(魂の成長レベル)の違いによって、自ら赴く界層が決まるが、その後、魂がその界層レベルを超 えて進化すると、自然とその界層を離れるようになる。そしてより高い界層へと上昇して行くようになる。

さて界層間の交流であるが、原則的に、異なる界層間の交わりはない。
ふつう同一界層間での交わりがあるだけである。ただし例外として、時に上の界層にいる者が、地上人の死に際しての出迎えや、低い世界の住人の指導のため、わざわざ低い界層に降りて行くことがある。

しかしその逆、すなわち低い界層にいる霊が、より高い界層に行くことはできない。

なぜならば高い世界の光はあまりにも強すぎ、まぶしさを超えて苦しみとなるためである。
結局いたたまれなくなって、その世界から逃げだ さざるを得なくなるのである。

強い光は、未熟な者にとっては苦痛以外の何ものでもない。 

このように霊界では界層があり、霊の魂の発達程度(霊格)の違いで、住む界層が決定する。
霊性が高ければ高いほど善性が強ければ強いほど、親切心が多ければ多いほど、慈愛が深ければ深いほど、利己心が少なければ少ないほどそれだけ高いレベルの界層に住むようになるのである。

そして同じ成長レベルの霊達と生活を営むようになるのである。  



                                 


     (二)地上の愛のゆくえ――霊界での「男女愛」と「家族愛」
  

                                 T 霊界での男女愛・性愛

地上で愛し合った男女が他界した場合、もし魂の成長レベルが同じであれば同じ界層に住み再び愛し合うことになろうその場合、二人の結び付きは地上時代よりいっそう強くなる。

が、その後両者の成長スピードが異なれば、やがて一方が先に上昇の道を歩み出すに伴い、別々の界層で生活するようになる。


とは言っても、両者の間に本当の愛があれば、上の界層に行った者が一時的に下に降りて会いに行くこともできる。 “真実の愛が失われることはないのである。
 
ここで覚えておいてほしいことは、地上の男女愛(性愛)と霊界のものではその内容が全く異なるということである
地上では子孫を残すために男女の交わりがあるが、霊界ではそうした子供をつくるためのセックスは必要な物で
そのため霊界には、地上のようなセックスは存在しないのである。

 
また地上における性愛には往々にして利己的要素が伴っているが、霊界の性愛には一切そうした要素はない。
地上では、激しい性愛・男女愛であればあるほど、より利己性が強くなるという避けがたい宿命がある。

この男女愛の激しさが文学のテーマになったり、多くの純粋な男女の憧れにもなってきたが、利己性が多くなればなるほど、時間の経過とともに必ず破綻をきたすようになる。


それはそうした男女愛が霊的法則から外れているため、永遠性をもち得ないからである。
そのことは霊界においては、もっとはっきりとした形を取るようになる。

利己性のあるものは霊界では一切通用しないため、地上の恋愛感情は存在しえなくなる。
霊界と地上界の際立った違いの一つが、この男女愛・性愛である。

 
霊界通信では絶えず、「地上には本当の男女愛はない」と言ってくる。では本当の男女愛とはどういうものか
というならば、地上での親友との情愛(友情関係)にむしろ近いものであるという。

人間と人間としての結びつきが、どこまでもその関係の中心なのである。
すなわち、地上的男女意識のない男女愛・結婚愛のみが霊界にもっていける性愛ということになる。


霊界では地上の男女愛のように、相手を自分に引き付けておきたいということは一切なく
それよりも自他の魂の成長とそれをなしとげる、より
広 い愛(利他愛・普遍的愛・神への愛)に関心が向けられるゆえに霊界では成長にともなって、地上のような男女差はなくなっていく。

もし両者が共に普遍的な愛をもっており、この愛による結びつきが出来上がる時のみ、地上では想像できなかったような真の愛の喜びを体験することができるようになる。

これが霊界での結婚である。地上時代の二人の男女の結婚が、魂の結びつきではなく、肉体の結びつきにすぎず、
しかも両者の霊格に差がある時、死とともにお互いは離ればなれになって、それぞれの界層に引かれていく。

 

                               


                                 T 霊界での家族愛

男女愛と同様、地上における家族愛は往々にして排他性をおびている。
社会全体との関係から見る時、常に自分たちの
家族の利益を第一に求めている。

親子の関係を見ても、わが子のみ、わが子だけが大切、というのがその実相である。


地上の家族の結びつきは、いわゆる血のつながりであって、どこまでも物質 的つながり、物質的関係にすぎない。それは本能的なものによる結びつきであって、霊的なものではない。

そのため、地上の大半の家族的絆は、利己的なものになっている。

 
地上の家族関係の中には、人間として体験すべきあらゆる種類の愛が存在する。
親子愛・兄弟愛・夫婦愛という、それぞれ異なった次元の愛を体験することができ
すべての人類を愛する
シュミレーションが可能となる。

また、時には教え、時には教えられる、という
愛の基本的訓練も、家族関係の中でなすことができる。

しかし、その愛の内容・方向性が、物質的・本能的・利己的なものであるとするなら、せっかくの家族関係が何の意 味も持たないことになってしまうのである。
死後、お互いが幽界では一時的に会うことはあってもそれ以上の世界である霊界では、一緒に歩むことはできなくなる

各自がそれぞれ霊的に成長し、
普遍的愛・利他的愛を持てるようになった分だけ、霊界での愛の関係は可能になる。

ゆえに地上での血縁的関係だけを重視し、それに縛られれば縛られるほど、霊界での関係は薄くなっていくと考えなければならない。結局、地上レベルでの狭い利己的なグループ意識は、いつかは拭い去らなくてはならないということなのである。

地上ではとかく、血筋・血統を重視することが多いが、それは霊界では全く価値のないことである。
また霊界では、地上のような親子の上下関係も通用しないことを覚えておくべきである。

霊的な成長をなしているほうが
無条件に高い世界に行くようになるのである。


                              


         (三)霊界の環境――言葉を超えた、躍動的な極美の世界 

思いが直ちに物や環境をつくり出したり、テレパシーでお互いの心が通じたり、行きたいと思うだけで
瞬間的に移動するといった幽界のもつ性質は、何一つ欠けることなくそのまま霊界に持ち越される。
 
いやそれどころか、それらすべてがより完璧に高められて存在するようになる。

 

幽界でつくられた環境は、地上時代に各自が抱いてきた、地上的な物への欲求の反映であった。
一人ひとりが思いのままに勝手につくり出した、幻の環境であった。


霊界では、そのような地上的欲求を持ち続けている者はもはやいない。霊界では心が同レベルの者が、同一界層に集 まって生活するため、そこにつくり出される環境は各自バラバラなものではなく、全体の心の反映としての 
一つの世界がつくられるようになる。

ゆえに霊界の環境は幽界と比べて、すべてにわたって数段美しく輝くようになる。

もちろん霊格の高い霊たちの集まる上の界層に行けば行くほど、環境は一段と美しさを増すことは言うまでもない。

そうした霊界の様子を地上の言語で説明しようとしてもできるものではない。 

その理由の一つは、地上には霊界の美しさを譬えるべきものがないため、伝えたくとも伝えられないということである


さらに言語はどこまでも地上のものであって、物質的なものであり、霊的領域に属してはいないので、
その粗雑な地上のもので、比較にならない
精密・精妙なものを説明することはできないのである。

地上の言語は、道具として使えないということなのである。


幽界には地上的な要素が多く残されているため、地上の言語を用いても、ある程度説明することができるが
霊界ともなると状況は全く違ってくる。


それについて、シルバーバーチはこのように述べている。 
 《私の苦労を察してください。譬えるものがちゃんとあれば、どんなにか楽でしょうが、地上にはそれがない。
  虹の色は確かに美しい。ですが、地上の言語で説明できないほどの美しい色を虹に譬えてみても、美しいものだと  いう観念は伝えられても、その本当の美しさは理解してもらえないのです》

 
 しかし、そのシルバーバーチにあえて霊界の様子を語ってもらうことにしよ う。
 
《あなたがたはまだ霊の世界の喜びを知りません。肉体の牢獄から解放され痛みも苦しみもない、行きたいと思え   ばどこへでも行ける、考えたことがすぐに形をもって眼前に現れる、追求したいことにいくらでも専念できる、 
 お金の心配がない、こうした世界は地上の生活の中には譬えるものが見当たらないのです。


 その楽しさは、あなたがたには分かっていただけません。肉体に閉じ込められた者には、美しさの本当の姿を見るこ とができません。霊の世界の光、 色、景色、木々、小鳥、小川、渓流、山、花、こうしたものがいかに美しいか、 あなたがたは御存じない。

 人間は死んではじめて真に生きることになるのです。
 あなたがたは自分では立派に生きているつもりでしょうが、わたしたちからみれば、半ば死んでいるのも同然です。

 霊的な真実については死人も同然です。なるほど小さな生命の灯が粗末な肉体の中でチラチラと輝いてはいますが  霊的なことには一向に反応を示さない。霊の世界は人間の言葉では表現のしようがありません。

 譬えるものが地上に見い出せないのです。すでに死んで霊界にいる者のほうが、生命の実相についてはるかに多く  を知っています。住民の心は真の生きる喜びがみなぎり、適材適所の仕事に忙しく携わり、奉仕の精神にあふれ、
 互いに己の足らざるところを補い合い、充実感と生命力と喜びと輝きに満ちた世界です。


 ここは光と色彩にあふれ、芸術の花咲く世界です。この世界に来て芸術家は地上で求めていた夢をことごとく実現  させることができます。画家も詩人も思いどおりのことができます。本来だれもがもっている天才的才能を、
 存分に発揮する
ことができます。
 地上の抑圧からきれいに解放され、天賦の才能が他人のために使用
されるようになるのです。

 インスピレーションなどという仰々しい用語を用いなくても、心に思うことがすなわち霊の言語であり、それが電  光石火の速さで表現されるのです。地上の芸術家が、最高のインスピレーションに触れたといい、
 詩人が恍惚たる喜悦に浸ったといっても、われわれ霊界の者からみれば、それは実在のかすかなるカゲを見たにすぎ ません。


 金銭の心配がありません。生存競争というものがないのです。弱者がいじめられることもありません。霊界の強者と は、弱者に救いの手を差し伸べる力がある、という意味だからです。失業などというものもありません。スラムもあ りません。利己主義もありません。宗派も経典もありません。あるのは神の摂理だけです。それがすべてです。

 地上のいかなる天才画家といえども、霊の世界の美しさの一端なりとも地上の絵の具では表現できないでしょう。  いかなる音楽の天才といえども、天 上の音楽の旋律の一節たりとも表現できないでしょう。いかなる名文家とい  えども天上の美を地上の言語で書き表すことはできないでしょう。
 
 そのうち、あなたがたもこちらの世界に来られます。そしてその素晴らしさに驚嘆されるでしょう。あなたがたは地 上の大自然の美をみて感嘆されま すが、その美しさも、霊の世界の美しさに比べれば至ってお粗末な、
 色あせた 模作ていどでしかありません。地上の誰ひとり見たことのないような花があり色彩があります。

 小鳥もいれば植物もあり、小川もあり山もありますが、どれ一つとっても、地上のそれとは比較にならないほどきれ いです。


 そのうちあなたがたもその美しさをじっくりと味わえる日が来ます。その時あなたがたは霊になっているわけですが その霊になった時こそ、真の意味 で生きているのです。》

 
以上、シルバーバーチの説明によって間接的ではあるが、霊界が素晴らしい世界であることが理解してもらえたと思うこの説明の中には、霊界のすばらしさの他に、芸術観や言語観といった哲学的テーマについても、実に本質 的な内容が示されている。

言語については、われわれは普通、それはきわめて精密で体系的で知的要素の多いことから、間違いなく霊的分野に 属するものと思いがちである。

がシルバーバーチに言わせれば、地上の言語はたかだか地上でしか通用しない
物質的な道具にすぎないのである。

言語が一見いかにも複雑な一面をもっていても、思想を伝える単なる不自由な道具にすぎないということになる。
霊界での通信手段であるテレパシー とは、機能においても正確さにおいても、比較にならないほど劣るものなのである


思想伝達の本命はテレパシーであって言語ではない。地上で一つの言語をマスターするのには、莫大なエネルギー  と時間が必要とされるが、しかし言語はどこまでも地上でしか通用しないものなのである。
 
さて霊界というすばらしい世界で長い間過ごしてきた霊が、もし地上に降りてくるとしたら、どんな感じを持つであ ろうか。霊界側では、地上をどの ように見ているのであろうか。これについて、再びシルバーバーチに語ってもら うことにしよう。
 
 《物質界に降りてくるのは、正直言ってイヤなのです。楽しいものではありません。光もなく活気もなく、うっと  うしくて単調で、生命力に欠けています。譬えてみれば、弾力性のなくなったクッションのような感じで、何も   かもがだらしなく感じられます。どこもかしこも陰気でいけません。

 したがって当然、生きる喜びにあふれている人はほとんど見当たらず、どこを見渡しても絶望と無関心ばかりです。 この地上は本来幸せであるべきところに不幸があり、光があるべきところに暗闇があり、満たされるべき人々 が飢 えに苦しんでいます。こうした活気がなく鈍よりとして重苦しい地上世界に、われわれ霊界の者が合わせようと
 波長を下げていくことは、小鳥を小さなカゴに閉じ込めることと同じなのです。


 用事を済ませて地上から去って行く時のわたしは、鳥カゴから放たれた小鳥のようで、果てしない宇宙の彼方へ喜び 勇んで飛び去って行きます。》
 
これを読んだ皆さんは「われわれの住んでいるこの物質界は、そんなにひどいところなのか……」との思いを持たれたに違いない。

が、ほとんどすべての霊界通信が同様のことを言っているところから察するに、これが間違いない率直な霊界側の見方なのである。


ということは、それを逆に見れば、霊界がいかにすばらしい世界であるか、ということになる。
われわれが死後赴く世界が、これほどまでにすばらしいところであるとすれば、それは希望以外の何物でもない。
死は恐れるどころか、待ち望むべきものなのである。

                                      

                           さまざまな霊的存在 守護霊・背後霊

                                        ^ 守護霊    
受胎の瞬間から(ある時にはそれ以前から)死を迎える時まで、地上人生を送る間、ずっと一人の守護霊が付き添う。
また死後の世界においても、引き続きそのまま 共に歩むこともある。地上人の中で、この守護霊のいない者は一人もいない。

どんな人にも必ず一人の守護霊がいるし、守護霊の助けなしで独り立ちしている地上人はいない。守護霊は親が子を見守るように深い愛情を持って、献身的にわれわれを助け導いていてくれるのである。

守護霊は地上人のたどる運命をあらかじめ知っている。霊界において、いかなる人 間の守護をすべきか知り尽くした上で
自ら受け入れ任にあたっているのである。 ゆえにそれは、守護霊にとってはある種の義務であり責任なのである。

守護霊は地上人の魂の成長のために最善の道を歩ませようと努力・援助する。そしてそれを通して、自らも成長の道を歩む ことになるのである。地上人を助けることによって、自らも必要な因縁を切ったり、埋め合わせの道を歩むのである。
 
守護霊の多くは同一類魂のメンバーである(『スピリチュアリズム入門』類魂に ついての項参照)。深い情的親和性で  結ばれているメンバーが、守護霊として 地上人の魂の成長のために尽力するのである。

その愛は、地上のいかなる人間関係の愛よりも深く強いものである(地上人側が実 感できなくとも)。そして誰よりもわれわれの ことを深く知っていてくれるのである。このように、われわれは常に最大の愛で愛されているのであり、決して一人ぼっちではない。
忘れ去られている人は絶対にいない。神の愛は、地上にいる間はこの守護霊 を通じて届けられているのである。

同一類魂のメンバーが守護霊になるということは、霊的成長レベルが等しいということである。それは、霊的成長レベルの 
高い地上人には高い霊が守護霊となり、未熟な低い者には、それ相応の霊が守護霊となるということである。

ところで霊的成長レベルは同じであっても、守護霊は肉体を持たないために、その霊 的視野や認識能力は地上人よりはるかに広く深いものとなっている。そういう観点から見ると、まさしく霊的指導者・霊的親、または霊的先輩と言えるのである。
 
守護霊は、地上人が道を外れないように常に最大限の努力・援助をしている。イン スピレーションを通して善い思いを持つように仕向けたり、悪霊の妨害を防い だり、また霊的エネルギーを注いだりすることもある。

時として地上人が因果律の元で苦しみの体験をしなければならない時は、苦しむ我が子を前にした親の心境で見守ってくれるが、厳然たる因果律のもと、苦しみを乗り越えることによってしか成長しないことを知るがゆえに、直接の手出しをすることは決してない。
深い厳しい愛で接していてくれるのである。

が、肉体をまとった地上人は肉体の中に霊性を見失い、物質・肉欲に目がくらみ低級霊を自ら呼び寄せるような状態にたびたび陥る。そして心が完全に悪霊に支 配されてしまうこともある。

そんな時は守護霊といえども、もはや援助の手を差し伸べることはできなくなる。そう した時には仕方なくいったん手を引き、悪 霊の為すがままにさせ、苦しみの中に置くのである。そしてその状態から地上人に再び這い上がるチャンスがくるのを待つ。

苦しみの中から地上人の心が霊的に高まり、悪霊との縁を切り、自発的に向上心が 芽生えると同時にまた援助を開始する。  だからわれわれは、どんな時も決して見捨 てられることはない。
 
よく「自分の守護霊は誰?」と関心を持つ人がいるが、結論を言えば守護霊の名前は知る必要はない。
 ただ、今述べたような 守護霊が、深い愛情から自分を守り導いてくれている、ということだけを知っておけばよい。

死ねば自分の守護霊が誰であったのか確実に分かるようになる。もちろん類魂のメ ンバーであった場合、昔からの親しい相手 であったことはすぐに思い出す。 

ゆえに守護霊の名前・身元など全く知る必要のないことであるし、そうしたことに必要 以上に関心を持つことはエゴ的好奇心 なのである。

とは言っても「守護霊が常に自分を見守り導いてくれている」――それを意識することはとても大切なことである。
地上人が守 護霊に意識を向けることで霊的絆が 強化され、その分だけ守護霊はいっそう働きかけやす
くなり、霊の影響力を行使しやすくなる守護霊を意識して瞑想することも、地上人と守護霊の絆を深めるのに役立つ
 
宗教(キリスト教・ヨガ・密教など)によっては、守護霊・背後霊などを介さず「神と直 接交信すべきである」と主張することがある が、霊的事実として、そうしたことの できる人間は地上にはいない。

それは大言壮語・誇大妄想、または単なる観念的発想にすぎない。そうしたことは理 屈の上では考えられることであるが、現実 にはあり得ないことなのである。「自分は 神と直接交信できる」と言う人がいたとしても、その実情は守護霊によって霊的世界との係わりを持っているにすぎない。

本人は神からのインスピレーションと思っているが、実は守護霊が潜在意識の 中に吹き込んだ想念を、神の声と勘違い しているのである。

 
                               

                                       ^ 背後霊    
守護霊は一人の地上人に必ず一人付くが、それとは別に、地上人の仕事・使命を援助する複数の霊界の応援者がいる。
これを背後霊という。その背後霊の人数は、 地上人の仕事内容・使命・役割に応じて異なる。
ゆえに、背後霊の多い人と少ない人がいるということになる。 

  ※――背後霊も守護霊と同様、一方的に地上人を援助するというだけではない。
      地上人を援助する中で、背後霊自身も魂の成長が得られるという関係になっている。
      霊側から見れば、地上人を援助し神のために貢献すると同時に、
      自分の因縁の埋め合わせをして魂を成長させることができるのである。   

どのような霊が地上人の背後霊になるかということは、因果律上の罪の償い・埋め合わせなどから決められたり
使命や仕事の共通性、血縁のつながりといった、いろいろな要素によって決められる。

高級霊の場合、自分の魂のいっそうの進歩・向上のために、あえて指導困難な人間に付くことを希望することが多い。
守護霊の場合とは異なり、同一類魂のメンバーであるとは限らない。

また特殊な使命を霊界の上層界から指令され、地上救済のために働くケースもある (シルバーバーチなど)。
このケースでは、霊本人の因縁清算をするという目的はな く、一方的な愛の行為、援助としての働きかけということになる。

一人の人間に複数の背後霊がいる場合、それらの背後霊が皆同じ霊格であると いうことではない。
一人ひとりの背後霊の成長レベルはさまざまである。また時には、地上人や霊本人の成長や霊的使命に応じて入れ代わることもある。(守護霊は一生付き添い、生涯代わらないこととは異なる)


守護霊との関係同様、地上人が背後霊に意識を向け、感謝したり瞑想することによって影響力を受けやすくなる。
また地上人が「もっともっと人類のために働きたい! 」というような高い心境を持つならば
自動的にその決意に見合った霊を引き寄せることになる。

その意味では、心がけひとつでより大きな神の道具となれるという事である。
霊界の動きを左右することもできるということになる。

霊界では、地上人の中から霊的真理に通じ、人類のために働くことのできる人間が出現することを、いまかいまかと待ち受けて いる。そしてその人間の背後霊となっ て「地上に働きかけたい!」と願う霊が現実に数多くいるのである。


                                         
       
                                       悪霊・低級霊
 
                                          ^ 地縛霊  
地上でつくり上げた魂(心)は、その人間の死後の状態を決定する。
地上人生を、ただ物質欲・肉欲の追求だけで終わった者は霊的成長が為されないどころか、動物以下の
本能性の染みついた魂をつくり上げてしまう。

霊界に入っても死を自覚せず、いつまでも生きていると錯覚している者がいる。

その多くの者は、あの世でも地上時代と同じように物質的・本能的欲望を追求し、地上の同様の人間に働きかけ、間接的に物質的快楽を味わったり、地上人をそそのかし悪の道に誘い込んだりする。

このように、その未熟さゆえ地上から離れられず、悪事を重ねる低級霊を地縛霊 と言う。
自分の未熟な考え、狭い利己的考えで、自分自身を物質世界に縛りつけている霊である。

また地上時代の間違った宗教的信条ex死後再臨の時まで墓で待ち続ける)を 強く持ち続けて他界し、それが霊界に入ってもなかなか修正できない時も、自分自身を地上に縛りつける地縛霊となる。)

そして霊界での進歩の道に容易に入って行けないのである。(『スピリチュアリズム入門』「死の直後の様子」参照)
 

こうした地縛霊(悪霊・低級霊)が多く住むのは、当然地上に近くて地上の影響力・バ イブレーションがいまだ残る幽界の下層 ”に限られる。特に地上人の多く集まる所――物欲・本能欲のうずまく所にたむろして住みつくようになる。

これらの者達が住む世界は、霊界全体の中ではごく狭い領域にすぎない。
が、そこに住む住人は相当な数である。しかもそうした物質性の強い霊ほど地上に働きかける力は強い。

一方、物質性の拭われた高級霊は、むしろ鈍重な地上世界には働きかけにくくなり、その世界近くに降りれば、その鈍重さの  ゆえ身動きがとれなくなってしまう。

結局、地上近くの幽界下層では、どうしても悪霊・低級霊が強い勢力・影響力を持つことになってしまう。 
 
そして高級霊が地上人に向けて働きかけようとすれば、常にこうした低級霊・悪霊 妨害に出てくる。

そのため高級霊は、これらの低級霊の妨害をとり除いたり、防い だりしながら地上に働きかけるのである。

さらに高級霊の地上への働きかけが難しいのは、地上の人間は肉体をまとっているため、霊的なものよりも常に物質的なものに容易に惹かれてしまう弱さを持っているからである。

そのために、高級霊の働きかけが良い実を結ぶことはいっそう難しくなるのである
 
低級霊が地上人に働きかける動機は、単なるいたずら・悪趣味・妬み・憎しみといった、個人的・利己的なものにすぎない。
そのため低級霊全体が組織的に活動するというようなことはない。

もちろん幽界では、地上的な腕力とか暴力が物を言う世界なので、ボスを中心として 小グループが存在するが、キリスト教など で言われてきたような、神に対峙するサタンの一大勢力――大きな組織的な、アンチ神の勢力は存在しない。

神対サタンという二大勢力間の闘争という構図は、現実には存在しない。聖書に描かれている堕天使ルシファーも実在しない。
 

                                       ^ 悪霊への対処 
 
すきあらば低級霊・悪霊は、直ちに地上人に働きかけようとする。
地上世界は常にそ うした低級霊たちに取り囲まれている。

霊界からは人間の心の動きが手に取るように分かるので、地上人が物欲・利己心・嫉妬・怒り・情欲などの思いを持てば、
それを悪霊はすぐキャッチし、働きかけの絶好のチャンスとする。

またむやみに霊現象にばかり関心を持つ者も、わざわざ悪霊を呼び寄せるようなことになる。

霊現象に対する異常な関心は利己的動機から発することが多いからで ある。
また御利益信仰などに走る人も低級霊にとっての格好の餌食となる。

物欲と霊現象への異常な関心は、霊にわざわざ「私をからかってください」と言っているようなものである。

また高級霊の支配の及ばない交霊会も、悪霊の働く絶好の場所となる。霊との正しい交わりを求めるためには、悪霊を寄せつ けない地上人の心の清さと高級霊の守護が必要である。霊界への間違った好奇心・利己心が、悪霊を引き付けるのである

さらに霊的体質者(オーラの多い体質者)ともなれば、低級霊にとっては磁石のような存在で、悪霊をストレートに引き付けることになる。状況によっては、生命に係わるような危険さえ生じかねない。
 
ゆえに悪霊を近づけないためには『霊現象ばかりにむやみに関心を持たないこ と』、『自分の心を清らかにし、利己的な思いをなくするように努力すること』そして『 悪霊の働きやすい悪い雰囲気・人ごみには極力近づかないようにすること』が必要である

自分の心が高まり霊主肉従になってスッキリすれば、たちまち悪霊は働きかけられなくなり、その場から離れる。

このように自力で悪霊・低級霊を遠ざけないかぎり、他人(霊能者など)に頼んで力ずくで取り除いてもらっても、再び別の低 級霊に入れ代わるだけのことである。

本人が命がけで心を変える努力をしてこそ、悪霊を退け身を守ることができるのである。

『考え方を変え、愛の思いを持つこと』――これが悪霊を近づけない最善の方法である。

お守りを身に付けたり、形だけの祈り ・呪文には何の効力もない。
 
                                         ^ 憑依現象    

地上人の潜在意識が低級霊によって支配され、人格が取って代わられ、全く別人のような状態になってしまうことを
憑依 と言う。

善霊支配の交霊会で、霊媒者が 霊界の人間といっとき入れ代わるのと見かけは同じであるが(この場合は、
霊界の住人と地上の霊媒のお互いの納得と協力のもとで進められていく)

憑依の場合は本人の許可なく力ずくで低級霊が支配する。低級霊が一方的に地上 人(多くは霊的体質者)の潜在意識を支配し自分の言いなりにしてしまうのである。

霊界の住人にとって、地上人の肉体を本人の承諾なく支配することは、霊界の法 則に反する重大な罪である。
その意味で、憑依した霊はいつかその償いをしなければならなくなる。(第一部第七章「因果律・運命・自由意志」参照)
 
憑依では外見上別人格になってしまうが、霊が地上人の肉体の中に入るのではなく 自分の意識と地上人の潜在意識を同調させ融合させるのである。

そのようにして、いったん潜在意識を支配すれば、自動的に地上人の肉体全体をコントロール下 に
置くことができるようになる。

大きなショックや病気で身体が衰弱した時には霊肉のバランスが崩れ、憑依されやすくなる。
また「因果律」の箇所で後述するが、人によっては過去の罪の償いをするために憑依され苦しむという道を歩まされることもある。 


が、いずれにしても憑依の直接的な原因は地上人本人の心の在り方であり、利己的 ・本能的心が引き金となることは言うま でもない。いかなる因縁があっても、正 常な心を保つよう努力する者には低級霊は近づけない。
 
身近な者が憑依されて気違いの状態になってなかなか悪霊が去らない時、回りの者 達はこの者に振りまわされて疲れ果ててし まう。ひどい憑依状態が続けば、まともな生活ができなくなる。

何日も食事をとらず、またほとんど寝ることもなく、放浪したり家出をしたり、物を壊したり自殺を企てたりして手に負えなくなる。

家族の者はそうした者を身近に持つことで苦しむようになるが、それは本人ばかりではなく、家族の者にとっても因果律の関係で生じていることが多い。因縁ゆえに、その苦しみを通じて償いの道を歩むのである。

が、現実的対処としてはそうした場合、憑依されている者を精神病院に強制的に入院させ隔離するのがよい。
現代医学では憑依現象は精神分裂症とか多重人格症 として扱われる。

強制的に薬によって疲弊した身体を休ませ、心身のバランスを取り戻させることが必要である(患者の大半は、長期の不眠・断 食状態で心身が衰弱している)。

心身の バランスが戻れば、それに応じて悪霊の影響力も減っていく。しかし本人がそれ以後 心の持ち方を変える努力をしないかぎり、同じことを繰り返すことになる。 

悪霊の誘惑・働きかけを最終的に許すのは地上人本人である。地上人の心の持ち方いかんで、悪霊の働きかけが現実のもの になるかどうかが決まるのである。低 級霊・悪霊は心に直接ささやきかけ、利己的思い・悪感情を誘発しようとする。
が、地上人がそれをはねつけさえすれば、結果的には何の悪事も生じない。
 
悪霊自身の救いという次元から見ると、悪霊の働きかけによって地上人が苦しむ時 それが因果律上、地上人にとってのふさわしい償いの道になっていたら、結果的に 悪霊は地上人の成長のために手を貸したことになる。

悪霊自身はそうしたことは理 解していないが、我知らず自らの救いに寄与することになるのである。

ゆえにそうした悪事(因果律に叶った事)に対しては神はその行為をもって、悪霊(未熟霊)の為の救いの道とされているのである



                                        

                        天使・妖精

地上界に人間やさまざまな動物がいるように、霊界にもさまざまな霊的存在がい る。 

                                           ^ 天使   
天使は、神の造られた世界の運営・秩序の維持のために働き、神の法律の執行役、神の造られた世界の役人として
神の意志を伝え、経綸運行の役割を担っている。
  ※――高級霊や守護霊を天使という言葉で表現する霊界通信もあるが、厳密にはその役割も立場も天使とは異なる。
      人間の霊である守護霊・背後霊は、因果律の支配のもとに地上人を成長させるべく援助をしたり働きかけるが、天使の      役目はそれとは異なり、どこまでも因果律(法則)自体の運行をつかさどる役割を受け持っている。
 
天使は地上の人間との係わりなくして成長できるため、地上人の背後霊となる必要もなく
人間の魂成長のために直接係わる必要もない。       
 
天使は地上界(物質界)に生まれることなく直接霊界に生まれ、成長の過程をへる。
人間とは異なる生まれ方・成長の仕方をするのである。天使は人間と同様、高度な知性を持っており
人間と交流やコミュニケーションをすることができる。
天使の中に は成長レベルに応じてさまざまなランクがあり、上級天使から下級天使まで存在している。
 
天使は人間の霊体と同様な外形をしている。これまでの宗教ではよく、天使は翼のある存在として描かれてきたが
それは昔の地上人が、「空を飛ぶ天使は翼があるもの」と考えてきたためであって、本来、天使には翼は無い。

                                          ^ 妖精 
 
妖精は、天使からの命令と愛を受け、自然界の造化の役割を担う職人として末端の仕事に勤(いそ)しむ霊的生命体である。  妖精は進化の程度では人間より低い。そして天使同様、妖精も進化のレベルに応じて下位から上位の無数のランクがある。
それに応じて知性の程度もさまざまである。地上界に進化のレベルが異なるさまざまな動物がいるのと同様である。

妖精(自然霊)の中で高級なものはデーバと呼ばれ、かなりの知識を備えている。
地上での特殊な心霊現象を起こす際にはこのデーバが背後から現象現出のための働きをする。 

摂理機構の末端で働く妖精は、エネルギー体として存在し形態を持たない。が、時と して、瞬間的に小さな人間や動物の形をと ることがある(形態化)。それが霊視され たり写真に撮られたりするのである。

こうした末端で働く妖精は、物質界のバクテリアや原生動物、赤血球、白血球のよう 働きを、幽界次元で行っている。
そうした末端の妖精には、自意識も知性もない。
こうした妖精が無数集まり、集団で協同して自然現象などを現出する。

                             因果律・運命・自由意志

                                ^ 因果律   

われわれ地上の人間の関心事の一つに、自分の運命がある。人間である以上、誰もが幸せな将来を願う。
そして古来より、さまざまな占いが人々の関心を集めてきた。
こうした運命・因縁について、霊訓ではどのように言っているのであろうか。
 
神は宇宙を法則によって支配している。そのため霊界・宇宙には、数限りない法 則が存在する。物理法則、運動法則、天体 の運行の法則、自然法則、肉体に係わる法則、霊と肉体の関係の法則等、無数の法則の支配のもとで被造世界は存在している

そうした法則の中で、われわれ人間の魂の向上に深く係わっている法則が
因果律(原因と結果の法則)なのである。
親なる神は子供の成長を願い――それが反映して、人間は永遠に進化する存在と して造られている。その魂の進化を支配す る最大の法則が因果律である。

われわれ人間は、この因果律という不動の法則のもとで、魂の成長・向上を為していくのである。
この因果律は法則である以上、どこまでも人間の好み・感情・個人的願いとは 無関係に機械的正確性をもってわれわれを
支配していく。

次にこの因果律(原因と結果の法則)による、魂の成長について見ていくことにしよう

われわれは地上で生活するかぎり、何らかの過ちを必ず犯すものである。ましてや霊的真理を知らず、何が正しく何が間違っているかを知らない人間が、霊的法則からずれた行為をするのは当然のことである。

霊界に入ると、地上生活で自分がどんな間違いをしてきたのか、はっきりと分かるようになる。
また、さらなる魂の成長にとって何が足枷となっているか、明確に知るようになる。

魂の成長を為すためには、そうした地上生活での罪を償うことが不可 欠となり、自らの意志で、その償いをするような再生の人生を選択するようになる。  
すると再生地上人生では、因果の法則によって前世での罪の償いをするような道が自動的に展開していくのである。

また地上で人生を送ったものの、十分な成長を果たせないまま他界してしまうことがある。
この場合も、その後の霊的成長のために埋め合わせ(不足分を補うこと) が必要となる。
すると再生人生では、因果律によって、それを埋め合わせるような道が自動的に展開していくのである。
もちろん善いこと(利他愛の実践)をすれば、それに見合ったよい結果(魂の成長)が必ずもた らされるようになる。

以上をまとめると、次のようになるであろう。
 
` 霊的法則からずれた間違った歩み・利己的歩み(原因)償いの道(結果)
` 魂の成長が不十分・実践不足(原因)埋め合わせの道(結果)
` 霊的貢献・利他的、善の歩み(原因)霊的恵み・魂の成長(結果)
     
自分の行為・思考の結果は必ず生じてくる。それは寸分の狂いもなく、機械的正確さ をもって生じてくるのである。
この原因と結果の法則から、誰ひとり逃れることはで きない。

人間的・物質的な目で見れば、悪いことや利己的なことをしてもごまかしが効くと思うかもしれないが、霊的法則を曲げることは できない。償いの道は必ず生じてくるのである。
 
また地上での行為の結果が生じるのは地上だけとは限らない。地上で為した悪事の 結果は、地上生活中にいろいろな苦しみという形で返ってくることもあるだろう。
が霊界に行ってから生前の悪事を見せつけられ、逃れることもできない中で、激しい良心呵責・心の痛み・後悔を持つという形で返ってくることが多いのである。

霊界までを含めて考えれば、地上での行為は、必ずそれに見合った結果を引き起こ すということである。
 
このように、償いの道、不足を埋め合わせる道は、地上においては大半が苦しみの体験として現れることが多い。
苦しみは誰 もが避けたいものであり、不幸・不運そのものと考えられている。

が、因果という大きなスケールで見るかぎり、すべてが人間の魂を成長させるために生じてくるありがたいものなのである。 
霊的真理を知らない者にとって、また知っていても、ついつい地上的視野で物事を眺めてしまう人間にとって、苦しみを良いものと考えたり感謝することは難しいことである。

が、苦しみは魂の成長という大きな目的にとって、不可欠なものであることを忘れて はならない。
苦しみの体験の中で罪の償いと埋め合わせが為され、新しい霊的自覚を持てるようになり、少しずつ成長の道を歩み出すようになるのである。
 
地上での苦しみは、永遠の人生から見ればほんのわずかな期間である。
その時は確かに苦しいが、いつまでも続くわけではない。霊界ではその何十倍も報われ、幸せになれるのである。
それが分かれば、地上での苦しみは本当は不幸ではない。
霊界での報いという確実な保障があるからである。
 
  ※――よく次のようなことを言う人がいる。「死後の幸せなど、有るか無いか分かもしないのに、それを期待してこの世を生き       ようとするのは、目の前の苦しみに立ち向かう勇気のない人間、逃避的人間のすることである。
      今(地上人生)をより良く生きる事、強く生きることが大切であって、死後の保障などという弱い考えを持つべきではない」  
  ――
これは一見もっともな道徳的発想・意見である。が、それは霊的事実に対する無知からの空論にすぎない。
      そこにあるのは、「自分の意見が正しい」という傲慢な姿勢である。

もし霊界が本当にあるとするなら、その者は何と言い訳をするのだろうか。きれいごとなどどちらでもよい。
霊界があるかどうかという事実が問題なのである。その事実の上に立って、より良く生きることが大切なのである。     
 
苦しみの意味を真に理解することによって、現実生活でわれわれの心はどれだけ楽になるか分からない。
霊的楽天性を身に付けることができるようになる。そして苦しみに堂々と立ち向かう勇気を持つことができるし
何よりも大切な魂の成長を、より早く成し遂げることができるようになるのである。

霊的真理を知らず、地上人生に楽しみだけを求めれば、苦しみを不幸とのみ思い、 不公平意識に心がひがみ、嫉妬や醜い思 いが心を支配してしまう。
 
                           

                  ^ 運命と自由意志  
 
死後、霊界に行って霊的視野を持つようになると、自分の地上人生で何が足りなかったのか、何が失敗であったのか、明確 に分かるようになる。

次なる成長を為すために、地上でのどんな体験が必要かも分かるようになる。
そして自らその体験を望むようになる。
このようにして再生(地上再体験)への準備が為され、時がきて地上への再生ということになるわけである。

新しい再生の人生の目的ははっきりしている。魂の成長を為すための、償いと不足分(未熟さ)の埋め合わせをすることである そして因果律によって、必ずそのための道が展開するようになる。このように、その人間の地上人生は生まれる前からすでに決まっている。これが運命なのである。ゆえに「生まれつきの運命はある」と いうことなのである。
 
人の地上の運命は、偶然的要素や、神の意志や先祖の内容などで決まるのではなく 自分自身が自らの成長のために出生前 に選んだ結果なのである。この運命の本質が分かれば、運の善し悪し、幸・不幸などというものはないことが明らかになる。
人生において生じてくる全てのことは、自分にとって必要であり良いものである。

誕生に先立って成長のために自ら選んだ運命の大半は、苦しみの体験であることが多い。
が、具体的にどのような形で生じるかという事については、地上のもろもろの条件・状況によって決められ、さまざまな形で現れる

また、生じる時期も状況に応じて異なり、細かな部分まで百パーセント人生の航路が決まっているわけではない。
が、魂の成長にとって必要な道(試練・ 苦しみ)は必ず展開するようになる。
そのような意味で、運命の大枠は決まっている、と言えるのである。
 
さて、そうした成長のためのせっかくのチャンスに対して、地上人は必ずしも正しい対 処ができるわけではない。
霊的真理を知 らない者にとって、苦しみはただイヤなも のであり、何としても避けたい、と考えてしまうのが常である。
そして、どうにかしてその状況をやり過ごそうと考えたり、苦しみを他人の責任に転嫁して逃れようとするようになる。

苦しみを何とかやり過ごしたその時はほっとし良かったと思うかもしれないが、霊的視点から見れば大きなマイナスなのであるそしてそれについては、後に必ず 後悔という形で同じ苦しみに出会うようになる。

魂成長のための苦しみの体験は因果律の働きで自動的に生じるが、それを活用して魂の成長へ結び付けるかどうかは、本人 の自由意志に委ねられている。他か らの干渉はない。

この自由意志による決定については、霊界の守護霊も干渉することは許されない。 すべて本人の意志によるのである。
善い方向へ向かうのも、ムダな道をわざわざ 歩み苦しみを長びかせるのも、本人の意志である。

すべての責任を本人が負うのである。苦しみを避けて通ろうとするなら、因果律の働きによって、必要な償い・埋め合わせを完了するまで何度でも同じ苦しみが生じてくる。同じような苦しみに遭遇する道を、繰り返し歩まなければならないということになる
 
  ※――地上でつくった罪の償いは霊界でも為される。地上での怠惰な歩みによって
      せっかくの成長のチャンスをムダにするということは、霊にとって大変な失敗なのである。

霊界に行ってみると、地上で魂を成長させられなかった、また善いことを何もしなかったということをイヤというほど知ることになり大変な後悔と苦しみを持つようになるのである。(自分は悪いことをしなかったからそれでよいと思っても、それは大きな罪である)
この苦しみ・後悔が罪滅ぼしの一部分になるのであるが、それですべて良しとされるわけではない。

もう一度、
地上で罪を清算しなければならないことには変わりない。     
 
概して、大きな苦しみは大きな悟り・大きな進歩をもたらす(時には逆効果で心をいじけさせ、マイナスとなることもあるが)
大きな使命を与えられたり、人助けの道を歩む者にはこのケースが多い。

小さな苦しみは小さな悟りしかもたらさない。その分、何回も繰り返し積み上げることが必要となる。
こうしたことは、生まれる前の本人の霊的レベル、本人の使命、個 性、カルマの内容によって決められる。
いずれにしてもわれわれ地上人は、自分の意志いかんで、成長のチャンスをムダにすることも有効に活用することもできるとい うことである。最終的には自分で自分 を救うということなのである。

成長のための運命と本人の自由意志の関係をたとえて言えば、次のようなものである。
病人が医者のところへ行く。医者は病気を治すための処方箋と薬をくれる(地 上での償いの道)

が、それを処方箋どおりに飲むか飲まないかは本人次第である。処方箋どおりに飲んで早く病気を治すのも
薬がにがいからと言って飲まず、病気をいつまでも長び かせるのも本人の責任である。

苦しみの体験に対してどのように対処したらよいのか。それは ――『霊的視野に立 って大きな目で我慢する』ことである。
苦しみの中では、とかく小さな殻、自分なりの世界に閉じこもりがちになる。

が、どんな状況に有っても物質的利益を追い求めず、物質的世界に安らぎを求めずどこまでも霊的幸せを追求することである

苦しみの峠では自分を捨て、より  自己犠牲の道・奉仕の道を歩もうとしなければならない。苦しみを甘受し、利他愛の実践に専念することである。(第二部第二章「苦しみへの正しい対処」参照)

                            

                        ^ 信念の魔術的考えの間違い  
 
「ノーマンピール」「ブリストル」らの唱導で、一時ブームを巻き起こしたものに『信念 の魔術』がある。
自分の願うことを強く思い描き、潜在意識の中にそれを印象づ ければ、自分の希望がその通り実現する、というものである。

それを人生に当てはめれば、「運が悪いのは自分が悪いイメージを描くから」という ことになる。
そして、「プラスのイメージだけを潜在意識に強く印象づければ、運が好転する」ということになる。

が、この主張には、サイキックレベルでの部分的な真理はあるものの、大きなところでいくつかの問題がある。
まず、「強く思い描けば不可能も可能になる、何でも実現する」と言うが、これは事実ではない。
それは霊的真理・運命全体についての事実を知らないところからの発想にすぎない。

どんなに願っても、魂成長の観点に立って見た時、生じてはならないものは多い。
また、その本人が最も願わないことが、実はその人の魂の成長にとってプラスとなることが多い。

さらに「何を願うのか?」ということに対する価値観の問題がある。よく「お金・地 位・家・財産を手に入れたい!」というような ことが信念の対象とされるが、そうしたことは、強く願えば願うほど魂の成長にマイナスとなることが多い。

信念の魔術的考えは霊的価値観に対する無知からの発想である。
物質主義的で、極めて皮相的・功 利主義的考え方が土台にある。

人間にとって、お金や地位といった物質的なものを手に入れることが大切ではない。
「何が魂の成長にとって大切であるか?」 を常に念頭におき、霊的自覚を持つこ とが重要なのである。

もっとはっきり言うならば、お金が神への貢献のために必要なら、背後霊が準備してくれる。
自分で強く念じる必要はない。「できる限り貢献したい!」という純粋な信念を持ち続け、心静かに守護霊に委ねさえすればよいのである。

もちろん、良いイメージを持とうとすることは何の問題もない。が、それはあくまでも 霊的真理を踏まえた上ですべきことである。 霊的価値観に添った良いイメージを念じることは魂の成長にプラスになるが、この際も守護霊・背後霊を信じ
これに委ねることの方がより大切なことを忘れてはならない。霊の導きを信じ委ねることが、霊的人生を歩む上での大原則である

                              

                     ^ 占いについて  
 
初めに述べたように、多くの人々が占いに関心を持ち、時にはその示すことに一喜一憂している。
そうした占いについてどう考えたらよいかは、これまで述べた内容ですでに結論が出ているであろう。

 “
正しい運命観・因縁観が分かった以上、占いはどちらでもよいことである。
そもそも占い自体、どのくらい運命を当てられるものだろうか?すでに述べたように運命はたしかにあるが、
果たしてその運命を正しく言い当てることのできる占い者が地上にいるのだろうか? 
さらには占い者自身が運命・因縁についてどの位知っているのだろうか?

        ――霊的真理を知らずして、人生の正しいアドバイスができようはずがない。 

 “
霊的視点に立ってのアドバイスはただ一つ――『全てはあなたにとって必要があって生じているもの、苦しみは本当は良い ものであって不幸ではない。だからどんなに苦しくても利他的に生きなさい
。自分を捨てて物欲に走らないようにしなさい。そうすれば本当の幸せが得られる』――これだけなのである。

                            


                          ^ 苦しみの中にいる人に対して 
 
もし相手に聞く耳があるなら、『苦しみは必要があって生じたものであり、魂の成長のために大きな意味を持っている
/ 今の苦 しみは一時的なものであって、霊界では何十倍もの喜びが返ってくる/ 地上の苦しみは、霊界での幸福に比べたら取るに足りないものである/ だから決して不幸ではない、感謝すべきである』と、優しく教えてあげるのがよい。

人間的な同情心は持っても、決してそれに巻き込まれてはならない。そして、「霊界の人達・背後霊が、常に愛の想いで見守り 
導いてくれていることを忘れないように……」と、励ましてあげるべきである。
 
また聞く耳のない人に対しては、成長のために生じているその苦しみを乗り越えることができるよう、蔭から祈ってあげるのが
一番よい。

それが、いまだ真理を受け入れるに至っていない人への最大の愛の示し方なのである。
せっかく成長のチャンスとして与えられた苦しみの体験をムダにしないために、マイナス方向(安易な逃避の方向)へ手を貸してはならない。困っている人には、自分のできるかぎりの手助けをしてあげるべきであるが、
人情レベルの小さな同情・ 小さな手助けは、正しい愛とは言えないことを知っておかねばならない。


                                     

                       類魂

                       類魂としての歩み 
霊界入りした霊は、同じ成長レベルの他の霊たち(同じ界層にいる霊たち)と、共同社会を営むようになる。霊界に入ると、
類は類をもって集まるの譬えのごとく、自動的に引き合い引かれ合って一体となる。
霊界でこのようにして共同社会をつくり上げたメンバーは、霊の兄弟というべき存在で、霊格は言うまでもなく、情緒、嗜好性にいたるまで極めて類似性・共通性をもっている。

この心の共通性ゆえ、全体として大きな一つの心をつくり上げることになり、これを類魂(グループソウルとかグループメイトとも呼ばれる)という。

霊界の低い界層では二十人ぐらいの霊の集まりから始まり、高い界層ではその数がずっと多くなって、何百、何千と集まって一つの類魂を形成する。

 

それらのメンバーは、霊的共通性という純粋な親和性によってのみ引き合う関係であるので、はじめて類魂の仲間入りをした新しい霊は、「この世にこれほど自分と似通った者たちがいるものか!」と驚く。「これ程までに心が通じ合える者たちがいるものか!」と驚くのである。

そのメンバー間の親密度といったら、地上時代の親友関係など比ではなく、夫婦の結びつき・家族の結びつきなどもはるかに及ばない。

まさしくここには、完璧な親和性、理想的人間関係が存在するのである。
もちろん、裏切り・嘘かくし・本音と建前の区別といったことなどは一片のかけらも無い。
 
さらに驚くべきことに、そうした理想的親友(類魂)が、さまざまな人種・民族から成り立っているということである。

メンバーの中には黄色人もいれば白人もいるし黒人もいる。また地上時代を過ごした時期も、一人ひとりバラバラである。

地上時代の職業もさまざまで、ある者は仏教の僧侶であり、ある者はアメリカ人の技師であったり、イタリア人の画家であったり、中国の農民であったりする。


ここには、地上のような言葉の問題は一切ない。お互いは、お互いの考えていることが手に取るように伝わってくる。

こちらの思うことは言葉を使わずとも完全に伝わる。ここにはもう全く人種差はない。
皆が同じ魂の兄弟であるという意識以外、何も存在しない。

地上時代では成し遂げられなかった完璧な平等社会が存在するのである。地上ではいかに平等社会を目指そうとしても、メンバー一人ひとりが、完全に純粋な平等意識を持てないところがある。
そのため、完全な平等は常に理想として残されたままになっていた。
が、ここではその理想が、夢が、純粋な形で完璧に実現するのである。

さらにもっともっと重要なことは、そこにいるメンバーの心が文字通り一つとなることである。
これは地上時代には想像することさえできなかったことである。
地上では、「自分は自分、自分の考えは自分のもの、自分の心は自分のもの」と考えるのが常識である。それに疑問を加えようものなら、「おまえは頭がおかしいのではないか!」と叱られそうである。

「自分は自分、他人は他人」という区別は、われわれにはあまりにも当たり前であり、またそれ以外の世界があるなどとは、とうてい考えることはできなかった。時には仲のよい夫婦や男女があなたと私は一心同体と言うことがあっても、それは単なる比喩であって、文字通りそれが実現するとは考えなかったはずである。

が、霊界に入るとその地上の大常識が覆えされることになる。霊界の類魂の中に入ると、「あなたと私は同じ」という奇蹟が現実に起こるようになるのである。
 
「心の融合化、心の合一化」という、地上では考えられないようなことが類魂の中で生じる。そこでは「私の心」が「他人の心」と一つになる、あるいは「他人の心そのもの」になる。そして「他人の心」が「私の心」と一つになって「私の心」になる。
二十人のメンバーの心が私の心になる。

そしてその結果、私の心はそれ以前では考えられないような「大きな心」となり、「大きな存在」となる。「私の心は皆の心、皆の心は私の心」となる。こうした想像を絶するような主観の世界が展開するのである。
 
心が融合する類魂の中にあっては、時として自分と他人の区別はどちらでもいい、といった状態にまで至ることがある。
また自分と他人の区別さえつかなくなることもある。だから他の霊をさしてと言ってもよく、他の霊が自分自身を呼ぶのに、私の名前を言っても何の不自然さ、違和感もなくなる。

さらに、他の霊の地上人生は、その霊のものであると同時に、私の地上人生であると言ってもよくなる。肉体的には私はそれを体験しなかったが、それでも私は間違いなく、その地上人生を歩んだ、と言うことができるようになる。
地上時代の私は東洋人であったが、私は西洋人でもある、と言うことができる。
本当に私は西洋人として生きてきたのである、と言うことができるのである。
 
自分は自分であるが、「大きな自分(大我)」の中の自分である。他の霊の体験と知識はすべて私のものとなっている。他の霊の感情も私のものとなっている。これが類魂に入った私に訪れる、「大きな自分(大我)」の意識なのである。

自分の経験・知識・心は一気にふくらみ、大きな自分となる。自分で、大きくなった自分自身に驚嘆し感動する。

大きくなった自分は、意志と精神と感情が爆発的に拡大し高められる。まさしく自分は「大きな自分」になったのである。
とは言うものの、自分がなくなってしまうわけではない。

このあたりを地上の感覚で理解しようとしても不可能である。
地上には全く存在しない世界であるため、たとえるものがないからである。地上の言語を用いての説明は限界がある。

いずれにしても、自分自身が大きな自分になる一方で、自意識と自分の根本的自我は少しも失われることはないのである。

自分の根本的性格は失われず、それでいて性格と能力が飛躍的に大きくなるのである。

類魂における主観の世界は、地上には全く類のないことである。心の合一化・融合化が現実となる世界は、地上にいるわれわれには理解の限度を超えたことであるが、どこまでも厳粛な霊的事実なのである。

われわれはこれまでという意識をごく当たり前に考えてきたが、実はとは何かについて、本当のことは何も分かっていないのである。

霊たちは類魂の一員となって、全体としての内面的協調の生活がいかにすばらしく、いかに美しいかしみじみと実感する。ここにきて初めて、地上生活では免れ得ない自己中心性という地上的必要悪から完全に解放されるのである

                                  

                                     再生

古来より多くの宗教(古代インドのウパニシャッド、仏教、古代エジプトの宗教など)では再生(生まれ変わり)が説かれてきた。死後の世界に興味を持っている人にとって、再生は大きな関心事の一つである。

スピリチュアリズムでは、再生をどのように考えているのであろうか。実はこの再生の問題は、スピリチュアリズムの中で最も異議の多いものである。同じ霊界通信でありながら、ある霊は再生を肯定するかと思えば、ある霊は再生を否定する、というように意見が分かれている。

霊的認識能力の乏しい地上人の間においての意見の食い違いならともかく、地上人と比べて何十・何百倍もの認識能力を持つ霊界人においてすら意見が異なるということは、この問題がきわめて複雑で難しい一面を持っているということである。

が、最近の高級霊の霊界通信によって、そうした霊界における意見・見解の相違の原因も明らかにされてきた。
その原因は、霊界通信を送ってくる霊自体の成長度がさまざまであり、いまだ未熟なレベルの霊では再生という事実が分からない、ということなのである。

結論を言えば、高級霊の通信では再生を等しく認めており、再生は間違いのない事実であると断言できる。

 

さてこの再生は何のために為されるのだろうか。
霊はどんな目的で繰り返し地上に生まれてくるのだろうか。すでに述べたが、人間はすべて魂を成長させるべき存在――永遠に進歩し続ける存在として創造されているが、その魂成長のための重要な手段・プロセスとして再生があるのである。
目的もなく、単に機械的に再生を繰り返すわけではない。

肉体という物質をまとって地上人生を送るのは、肉体を通して一定のレベルまでの魂の成長を為すためであった。
肉体生活を通じて、魂成長のための基礎的な部分が出来上がるのである
この一定のレベルにまで達しないうちは、何度でも物質生活を送って成長していかねばならない。
『スピリチュアリズム入門』再生についての項参照)
 
こうした、肉体を通じて成長すべき霊界のレベルを地上圏霊界と言う。もし何度かの再生をへて、地上人生を通して為すべき魂の成長を完了したなら、もはや地上への再生の必要はなくなり、地上圏霊界を卒業することになる。

古代インドのウパニシャッドの輪廻思想では、成長の暁に輪廻(再生)のサイクルを抜け出て、もはや生まれ変わる必要がなくなるレベルに至ることを解脱と言っているが、この意味するところは、今言ったように「地上圏霊界を卒業する」ということなのである

この点で古代インド思想は、再生についてのかなり深い見識に立っていたと言える。
が、再生の際、動物に生まれ変わることもある、というようなことを言う点では、完全な間違いも犯している。人間が動物に生まれ変わるというようなことはない。
 
次に再生の実態について見ていくことにしよう。まず重大な結論を述べると、「これまで地上人が考えてきたような再生――現在多くの人々が再生という言葉で考えているような事実はない」ということである。

再生があるという意見は正しいのだが、その再生について考えている具体的な内容となると、事実とはあまりにも懸け離れているのである。再生はないと断言した方が、むしろ正しいと言えるほどの事実誤認を犯しているのである。高級霊に言わせれば、地上人の考えているような再生はない、ということになる。 
それでは高級霊の明かす再生の事実とはいかなるものであろうか。

 
前もって言っておかねばならないが、再生について地上人に分かるように説明することは想像を絶する難しさが伴うということである。
それは再生に係わる霊的事実が、地上には全く実在しないものばかりだからである。地上人には全く想像さえつかないものを伝え教えようとすることはもともと不可能である。が、高級霊の霊界通信では、そうした不可能を知った上で、なお可能な限りの努力をして事実を伝えようとしているのである。

さて再生の事実を理解するに際して、第一に知っておかねばならないのは、われわれ地上人が自分と自覚する、自意識についてである。普通われわれは、今意識している自分が自分のすべてであると考えているが、

本当は「自分では意識していない自分」というものが存在するのである。それどころか、むしろ自覚していない自分の方がずっと大きいのである。今意識している自分は、ほんの一部の自分にすぎないということなのである。

地上にいる間は、われわれは自分のすべてを知ることはできない。脳という物質器官を通して自意識をもつ地上の人間にとって、大きな自分を知ることはほとんど不可能なのである。

死んで霊だけになれば、「脳を介さない意識――霊の意識」がそのまま存在するようになる。
すると今まで自覚していなかった自分を自覚するようになる。地上時代には隠されていた大きな自分を知ることができるようになるのである。
 
さてもう一度再生の問題に戻ろう。地上人は、脳というフィルターをへて出た自意識(一部分の自分)を自分自身の心のすべてと考えているが、こうした自意識の上に、性格、育ち、体質など、さまざまな要素が加わって一つの人物像ができ上がる。

そして、その人物像がその人自身とみなされるようになるのである。が、それは前述したように、その人自身のすべてではない。地上の人物像とは、たとえて言えば、その人の手の一部、足の一部のようなものである。

生まれ変わりを信じる大半の人達は、今の人物像がそのまま次の地上人生においても出現すると考えている。が、大きな私(魂)の一部が再生するのは同じであるが、地上に出現するのは別の人物像なのである。その人の手の別の部分、足の別の部分なのである。それをもし地上の側から見たら、全く別人が出現するとい

うことになる。つまり「前世では、今の私はいなかった。今の私とは違う意識の持ち主がいた」ということになるのである。
これまでの再生についての考え方は、地上の人物像をその人のすべてと錯覚し、「再生時には全く同じ人物像・そっくり同じ意識体が出現する」と考えてきた。今と同じ意識が再生時においても引き続き同じ形で出現する、というように考えてきたのである。
が、それは事実ではない。

「同一の魂の再生はあるが、地上に現れるのは、違う私の意識体(魂は同じだが)である」――すなわち同一の私という意識は現れないのである。前世に私と感じていたその意識は、次の再生時には別のものに変わっているのである。

前世の私はもうなくなって、別の私に変わって出現するのである。前世の私と再生時の私は全く別人物である。それは地上人の側から見れば、全くの別人が現れるということであり、それゆえ「再生はない」と言っても間違いではないのである。

しかし、それを霊側の観点からすれば、同一の霊が再現することには変わりがないため「再生がある」と考えるのである。
こうした事実を踏まえ、シルバーバーチは、「その人間の魂の部分、ないし一霊相(ダイヤモンドの数多くある一面)が地上に現れる」と表現しているのである。 

とかく、「私の前世は〜で、次に〜に生まれ変わります」という形で再生が語られるが、それはこうした――「人物像」イコール「私」イコール「全意識」――という間違った前提に立った上での説明で、そうした事実はない。

今、私と思っている自分は、前世時にも再生時にも存在しない。今、私と思っている私がそのまま再生することはないのである。
 
                              

^                 類魂の一部としての再生  
 
以上、一個の霊としての再生という面に視点を合わせて見てきたが、再生には、さらにもう一つの複雑な要素が加わっている。
それが「類魂の一部としての再生」ということである。

『スピリチュアリズム入門』でも述べたが、霊界では同一成長レベルの者同志が類魂という一つの大きなグループを形成するようになる。
そこでは、それぞれの霊の心・意識が文字どおり一つのものとなるため、「私イコールあなたイコール全体」というように、意識の共有化・融合化が現実のものとなる。
一人の霊の意識は全体の意識と同じとなり、一人の霊の成長体験は、皆の共有するものとなる。
このように私という意識は、霊界においては地上では想像もつかないものになり、大きな広がりを持つようになる。
まさしく大きな心・大きな私となる。
 
さて、こうした類魂が全体として成長するために、メンバーの一人が代表として地上体験を求めて再生するようになる。
そして地上での体験を死後、類魂に持ち帰って全体へ還元し共有するのである。
その際、地上へ再生する霊は外見はとして再生するわけであるが、心・意識としては類魂の一部として地上に赴くということになる。
霊界では個の外形より、心・意識こそが、実態・実感・重要性を持つため、まさしく一つの大きな心の部分――私の一つの部分が地上に分霊として赴く、ということになる。

これを霊界にいる類魂の側から見れば、「大きな私の一部が地上に再生する」ということになる。大きな類魂の中に入った私から見た時は、「私の大部分を霊界に残し、私の一部分の意識だけを地上に現す」ということになる。
これは、大きな霊(意識)の一部が地上に再生するということで、『分霊再生・部分再生』ということになる。(
 
                             
^                 一人の霊としての再生  
 
一方、個々の霊は、意識の面では類魂という大きな意識体そのものであるが、霊体という個々の外形によって区別されるように、一個の存在としての一面も持っている。

地上に償うべきカルマがある時、それを償うのは自分だけである。
個の存在としてカルマを作った以上、そのカルマの清算・償いは本人自身がしなければならない。

意識は類魂として大きな私であるが、カルマは法則によって、どこまでも個々の領域において適用されるようになる。
地上に残したカルマがある時、霊界では、それが成長のための足枷となっていることがはっきりと分かるようになる。

そして自己の償いのため、「地上人生を再び送りたい!」と思うようになる――個の霊の希望によって再生が為されるのである。こうした償いという因果律に視点を合わせて再生を考えれば、『全部再生』ということになる。(※※

このように一人の霊の再生は、類魂の一部分としての『部分再生』と、一個の霊のカルマ清算・罪の償いのための『全部再生』という、全く異質な二要素が同時に進行していくのである。

以上が、高級霊によって伝えられてきた再生についての説明であるが、再生というものが、地上人の想像を絶するような複雑なものであることが分かっていただけたと思う。
今後時代が進み人類全体の霊性が向上するに伴い、さらに深いところは明らかにされていくであろう。

 
この本をお読みになっている方々の中には、もっと深いところを知りたいと思う人もいるかも知れない。
たとえば霊界で再生を決意して後、地上に生まれてくるまでのことなどしかしそうした問題は現時点では明らかにされていない。

それは霊界側からの好意的な配慮であるかもしれない。ゆえにわれわれは、「今はそれを知る必要はない」ということとして受け止めるべきであろう。

われわれにとって何より肝心なことは、再生についての詳細を知ることではない。
今こうして地上に生まれている以上、最も大切なことは――『地上に生まれた目的である魂成長のための努力、地上で為すべき努力をすること』である。

幸いなことに、そのための必要な知識・歩むべき道は、霊界によって十分知らされている。
現時点では再生について明らかにされていないことがあっても、それで良しとすべきである。  
 
                           

                霊優位のための自己コントロール

われわれの心(意識)は、霊本来の意識(死後、霊体だけになった時にもつ意識)と、肉体に由来する物質的な意識(動物的なごりとも言うべき本能的意識)の二つから成り立っている。

地上においては、こうした霊の心と本能的な心を一つの心(意識)として自覚する。
そしてこれら二つの方向性の相反する意識が、たえず心の中で葛藤するのである。

地上という物質世界にいるかぎり、肉体は力をもち、簡単に霊的心を閉じ込めてしまう。
その結果、本能的意識を心の中心にすえたまま考え行動するようになる(この状態を肉主霊従と言う)。
そして霊をもたない動物と全く同じ状況に陥ってしまう。

 
が、それとは反対に霊的心が本能的心を押さえてコントロールし、心全体を支配するようになれば霊優位になる。(この状態を霊主肉従と言う)

このように考えると、地上人は大きく――「霊優位の生き方をしている人」と「本能(物質欲・肉欲)優位の生き方をしている人」の二つに分けることができる。

と言って、一日中すべての時間を、完全な霊主肉従の状態で過ごせる人がいるわけではない。霊主肉従のらかな時間と、本能(物質意識中心)に支配された時間をともに持っているが、

全体として見ると霊主肉従が優っている場合、「霊優位の人生を送っている」ということになるのである。
現在の地上を見るかぎり、霊優位の人生を送っている人はほんのわずかである。
大半の人々が、霊とは係わりのない、物質的意識にどっぷりつかった生き方をしている。
日常のほとんどの時間は物質中心となってしまっているのである。
 
魂を成長させるためには、心を霊主肉従(霊優位)の状態に立たせることが大前提である。
霊が本能に押さえ込まれ身動きできない状態では、とうてい成長はあり得ない。
霊主肉従は霊的エネルギーが蓄えられて、霊の心が肉の心を支配下に置いて可能となる。

霊主肉従の状況の中では、自動的に回りの人々への愛の思いが湧くようになり、肉欲が消えエゴ的思いがなくなる。
また心の底から本当の霊的な心地よさ・すがすがしさ・明るさ・喜びが湧き上がってくるようになる。

祈りなどによって霊的エネルギーが集中して多量に蓄えられた時は、心がすがすがしく明るくなる。
自分の心から利己性が全く消え去り、回りの人々に対する愛の思いが強くなり、自分の心の純粋さに驚くようにさえなる。

それとは逆に、自分の心が肉主霊従になると、苦しさ・暗さ・寂しさ・孤独・空しさ・苦痛を感じるようになる。
複雑な思い、回りの人々に対して批判的な思いが湧いてくる。また肉欲の思いが強くなる。

よく寂しさ・空しさが文学のテーマとされるが、それは端的に言えば、「霊的エネルギーが枯渇している状態」のことなのである。

霊主肉従の本来的世界を知らない中では、空しさ・孤独を克服することができず、重苦しい心のまま時を過ごすことになる。
時にはその空しさ・寂しさから逃れるため、飲食・遊びなどの気晴らしを求めたり、酒・セックス・ドラッグなどに溺れるようになる。
 
従来の宗教にはさまざまな戒律や数多くの修業法がある。
現代人の多くは、これらの戒律・修業というものを、時代遅れのもの、意味のないものとして片付けようとする。
が、霊的真理に照らして見ると、意義を持っていることは明らかである。
結論を言えば、従来の宗教における戒律や修業法は、霊主肉従の状態をつくり上げるための一つの手段であったという事である

戒律・修業法は、物質欲・肉欲にとらわれがちな地上人に足枷をはめ、放縦に流されないようにするための霊的手段なのである。物質欲にまみれた日常の意識を断ち切って、より次元の高い心境を持つためには、こうした戒律・修業は重要な働きをする。

結局地上の宗教には数限りない種類の修業法があるが、その本来の目的はたった一つ――「人間を霊主肉従の状態にムリヤリ立たせること」だったのである。

従来の宗教における戒律・修業法が、とかく現代人の批判の対象とされたり、時代遅れと酷されるが、霊的真理に照らして見るとそれなりの役割を果たしてきたといえるのである。 

スピリチュアリズムという霊的真理を得たわれわれは霊主肉従のためにどのような努力をすべきであろうか。

 @ 肉の放縦にストップをかけるための努力(本能に対して足枷をはめる)
  
 @物質(衣食住)を必要以上に求めない、執着しない。何とか生活できるレベルで良しとし満足する。
   
@飽食・過度の飲酒を慎む。
   
@セックスの放縦に流されない。
 
 A 霊体と肉体のバランスをとるための努力
   
@適度な全身運動をする  汗をかくような全身運動・ヨガ・呼吸法などは、霊体と肉体のバランスを
     正常化するには極めて有効である。
   
@入浴・水浴なども上手に取り入れる――自律神経系のバランスがもたらされ、気の流れが正常化する。  
 
 B 霊的エネルギーを高めるための努力
  
 
@霊的真理をじっくり読む。
   
@瞑想・祈りをする。
   
@霊的心境の高い人と会って話をする。
   
@心霊を高めるような良い音楽を聴く。

以上、霊主肉従の努力について具体的に述べてきた。@→A→Bと、霊優位レベルは高くなっていく。

これらを実践するためには、霊的真理に基づく強い自覚と、心を高めたいという意欲が必要である。「霊主肉従を実現してスッキリしたい!」という強い気持があることが、自己コントロールの第一条件であることは言うまでもない。それなくしては何事も成功しない。
魂成長の大前提である霊主肉従の努力とは、自己との戦いであり、それを為す決め手は、知性と気迫の問題なのであ

                                    

                             苦しみへの正しい対処

でに述べたが、苦しみは、われわれの魂の成長にとって不可欠な要素であった。
では、われわれは苦しみに直面した時、どのように対処すべきだろうか。

実際、苦しみに直面するとついつい霊的視点を失い、自分なりの苦しみだけの中に埋没してしまうものである。
そうした弱さは誰もが持っているが、そこでもう一度、霊的真理に照らし合わせ視野を広げることが必要である。

苦しみの意義を確認し、自分の在り方を真理に添わせることが大切である。その努力ができるかどうか?
――
『そこに真理を活用できる者とできない者の違いが出てくる』のである。

魂の成長にとって重要な意味を持つ苦しみに直面した時――この肝心なところで自分なりの判断をし、感情のままに流されてしまうなら、せっかく霊的真理を持ったことの意味がなくなってしまう。霊的真理は現実に用いるために与えられているものであって、知っても活用しないなら、何の価値もないことになってしまう。自分を虚しくして、ひたすら自分を真理に従わせる姿勢が必要とされるのである。
 
苦しみの中に立った時は、次のような霊訓のエッセンスを何度も思い出し、強く自分に言い聞かせるのが良い。

そして自分の視野を広げるのである。苦しみにとらわれそうになったら、その度ごとに、一日に何度でも霊的真理を読み返したり次のような霊的真理のエッセンスを確認して、自分の心を広くしよう! 


地上人生において苦しみのない人はいない。自分だけが苦しいのではない。何の問題もないように見える人、ただ幸せそうに見える人も、みんな悩みを持っている。苦 しみは、実はすべて良いものであり、自分の魂の成長に必要なものである。
だから喜んで受け入れよう。


地上の苦しみは、ほんのわずか一時のものである。この苦しみを乗り越えれば、霊界では何十倍もの喜びがもたらされる。  
過ぎ去ったことを、いつまでもくよくよ思い悩むのはやめよう。
先のことをあれこれ心配し取り越し苦労するのもやめよう。今「人々のために役に立ちたい!」と いう気持ちがあればそれで良い


今こそ裸になろう。見栄を捨て、新しく生き直そう。人の目や人の評価など、どちらでもよいことである。この世の物質的なもの、地上だけの幸せは、取るに足りない。霊界に持っていけるのは魂の清さだけである。

守護霊が常に自分と共にいて、最善の導きをしてくれている。本当の幸せに至れる よう、心を砕き愛し続けていてくれる。決して一人ぼっちではない。だからこの守護霊にすべてを委ねて歩めば、最善の道が開かれる。

地上にいる時はなかなか苦しみの意義が理解できず、ただ辛いこと・イヤなことのように思うものであるが、霊界へ行って見れば、苦しみのない地上生活は無意味なものであることがよく分かるようになる。

霊的真理を知ったわれわれは、苦しみを正面きって受け止め乗り越え、魂成長の糧としていくのである。


(シルバーバーチ)
 《要するに理解が行き届かないから苦しい思いをするのです。十分な理解がいけば苦しい思いをしなくなります。また、すべきで はありません。》
 《それによって苦しい思いをするか否かはあなたの進化の程度の問題です。》 
 《苦しみを何とも思わない段階まで到達すると、いかなる環境にも影響されなくなります。》

                                   

                                   利他愛の実践

地上と霊界のきわだった違いの一つは、地上世界は利己性・自己中心性が支配的であるのに対して、霊界では利他性・利他愛だけが存在しているということである。霊界では他に与えること、先に与えることが常識になっている。

人より先に、自分だけが利益を得ようと思う者は一人もいない。自分だけが愛されよう、先に愛されたいと思う者はいない。

こうした利己的な思いを持つと、たちまち心が苦痛を覚え、いたたまれなくなる。

肉体の異常は痛みとして感じられるが、霊界での利己性は、強烈な心の痛みとして感じられるのである。与えること、自分のことより回りの人々に尽くすことに大きな喜びを感じ強烈な楽しさを覚えるため、否応なく利他愛の実践に向かうようになるのである。

そのため霊界には、利己性という地上の未熟さ・悪はいっさい存在しない。全霊界には利他性のみが存在する。全霊界では、人のため、回りのために自分を役立てることを優先することが常識なのである。何という地上との違いであろうか!
 
地上では、自分のことよりまず先に人のことを考える者は少ない。自分のことより回りの人々のことを心配する人に、めったに出会うことはない。またそういう人がいるとするなら、その人は回りから特別な聖人のように見られるであろう。

が、霊界のすべての住人は、そうした人間ばかりなのである。われわれが霊的成長を為すためには、霊界人のレベルに倣って利他愛の実践に専念しなければならない。

地上で利他愛の実践を為すにはさまざまな困難が伴ったり、大きな努力が必要とされる。

が、どんな状況であっても純粋さと誠意をもって利他愛の実践をすることが重要である。どんな人にも分け隔てなく愛を示し、見返りを期待せず与えることだけで良しとし(無償の愛)、相手が幸せになることだけを願う努力をしなければならない。

シルバーバーチは利他愛実践の大切さについて、次のように述べている。
 
 《他人のために施した善意は決して消えません。なぜなら善意を施す行為に携わることによって霊的成長が得られるからです。 博愛と情愛と献身から生まれた行為はその人の性格を増強し、魂に消えることのない印象を刻み込んでいきます。》
 
 《我欲を捨て、他人のために自分を犠牲にすればするほど内部の神性がより大きく発揮され、
  あなたの存在の目的を成就しはじ めることになります。》
 
地上には魂の成長レベルが異なるさまざまな人がいる。そのため人を愛すると言っても、愛の行為自体には、いろいろなバリエーションができる。

霊界では成長レベルの等しい者が一つのグループをつくっているため、お互いの心がストレートに通じ、考え方の食い違いもないゆえに、初めから深い愛の関係をつくることができるのである。

それに対して地上では、愛の関係をつくるためには多くの困難や努力が必要とされる。
まさしく地上は  『愛を深める訓練の場』なのである。


Yいまだ霊的真理を受け入れられない人に対する利他愛の実践

地上人は大きく、霊的真理を受けられるレベルにまで至っている人と、いまだ真理を受け入れるレベルには至っていない人に分けることができる。

時至らず、霊的真理を受け入れられるまでに魂が成長していない人に対して、われわれはどのように愛を示すべきであろうか。日常出会う人々の大半はこうした人達である。幸いにして、先に霊的真理を受け入れることができたということは、霊的に上から愛する立場に立ったということになる。
 
では、先に真理を知った者としての 正しい愛の示し方とはどのようなものであろうか。それは次の三つに分けることができる。
 
U真理を受け入れられる時がくることを祈る

まず一つ目として――『相手の人間が、一刻も早く時至って霊的真理を受け入れ、霊的な人生を歩めるようになってほしいという祈りの気持をもつ』ことである。

その祈りの行為には、物質的な援助やボランティアよりも、もっと深い大きな愛が含まれている。それは霊界にいる高級霊・守護霊が、地上人が本当の幸せに至れるよう霊的真理との出会いという一点に向けてすべてのエネルギーを集中させ、働きかけていることと同じことをしていることになる。

今言ったような祈りの気持を持つということは、まさしく、霊界人と同じ視点に立ち、最高の愛を実践していることになるのである

                                      

                                U相手の霊的(魂の)成長を願う

二つ目は『相手の本当の成長を心から願う』ことである。

霊的真理を知らない人は、とかく同情心から手を差しのべることが本当の愛・優しさのように思っているが、必ずしもそうではない

相手が困っている時、手を差しのべてあげること自体は優しさであり良いことであるけれども、相手の魂の成長という、さらに一歩踏み込んだ世界にまで入ってみると、安易に手を貸したり同情することが、必ずしも相手のためにならないことがある。

親切心・同情心が、相手の成長にとってマイナスとなることが多いのである。

「因果律・運命」の箇所でも述べたように、地上における苦しみは成長のためにはどうしても必要なものであり、個人の責任において受け止めなければならない。

それが分かれば、相手の魂の成長を願った本当の愛の示し方とは、ただ単に苦しみに同情したり、安易な慰めの言葉をかけることではないことが理解できるはずである。それよりも、苦しみには大きな意義があること、頑張って乗り越えることが大切であることを教え、励ましてあげることこそ、本当に相手のためになるのである。


霊界の高級霊・守護霊が、地上人の魂の成長のために、苦しむ地上人を目の前にして、あえて心を鬼にして励ましの念を送っているのと同じようにすべきなのである。同情心に流され、安易な慰め・安易な手助けをするより、何も言わず何も手を貸さず、深い祈りの気持をもって見守り続けていることの方が、はるかに深くて正しい愛であることもある。

このように、回りの人々を正しく愛するためには、因果律の観点に立った霊的視野をもって見ることが必要なのである。ここに――『人間レベルの宗教・道徳レベルの宗教と、霊的事実に立った厳しいスピリチュアリズムの在り方との、根本的な違いがある』のである。 


                                   
            U自分のできる精いっぱいの援助をする。どんな人にも分け隔てなく愛を示す

 
三つ目は――自分の可能な限りの範囲で、『自分より恵まれない人々に手を差しのべる』ということである。
『誠心誠意、見返りを期待せず、また分け隔てなく、自分の持っているものを与え援助してあげる』ということである。

この場合――「自分の好みでない人に対してでも与えることができるか?」ということが問題となる。自分が同情できる人に手を貸すことはたやすいことである。

が、自分にとってイヤな人・好みでない人に対しても、同じように与え尽くすことは実に難しいことである。
しかし、「自分の気の向かない人には与えない」というのであれば、その人の与えるという行為は、本当の利他愛とは言えなくなる。

その人の愛の行為は自分の好みの実践にすぎなくなって、霊的価値は半減してしまう。(たとえ利己的であっても、何もしないよりはましではあるが……

つまりここでは、どんな手助けをするか? どんなボランティアをするか? ということが重要ではなく、
『自分の好みでない人にも分け隔てなく与えることができるかどうか?』ということが肝心なのである。
 
こうした観点に立って見ると、大半の恋愛・夫婦愛、また家族愛・親子の愛の在り方は、よくよく注意しなければならない。
これらの愛の関係には、根底に本能的世界のなごりである利己性が潜んでいるからである。

「自分や自分の子供、自分の家族には与えることができる」――これだけでは本当の利他愛とは言えない。

そうした、自分にとって大切なもの・価値あるものを必要ならば犠牲にできる上においてのみ、その中に霊的愛が存在するようになる。そしてその愛の絆は、霊界まで持っていけるものとなる。

それができなければ、結婚愛・家族愛・母と子の愛は、地上かぎりの物質レベルのものにとどまってしまう。
そうした愛のつながりは霊界では通用しないのである。
 
以上の三つが、霊的真理をいまだ知らない人々に対しての正しい愛の実践なのである。
 

                                   

     Y霊的真理を受け入れられるレベルに至った人に対する利他愛の実践
 
一方、霊的真理を受け入れるレベルにまで至った人に対する最大の愛の示し方は言うまでもなく――『霊的真理を教えてあげる、知っているかぎりの真理を提供してあげる』ことに尽きる。

霊的真理を知ることによって霊的人生の出発が為され、地上人生における最も意義ある歩みが可能となる。永遠の救いを得ることになる。

そうした時期のきた人の場合は、その人の守護霊・背後霊が導いて、われわれとの出会いを為すように仕向けてくれる。ゆえにわれわれは、そのチャンスを逃さないように常に気を配ることが必要である。

これぞと思った人には、とりあえず霊的真理についての話をしてみる。本当に時期のきた人ならば、それだけで目が覚めるような反応が得られるはずである。

少し話してみて全く反応がなかった場合、または拒否するような場合は、その人にはまだ時期はきていないと判断してよい。その時は、いずれ時期のくることを心から願って、それ以上押してはならない。
 
さて、こうした霊的真理を教えてあげるという行為は最大の愛の行為であるが、われわれの為すべきことはここまで、ということである。

相手が真理に良い反応を示すと、ついつい相手に過大な期待をしてしまうものであるが、その後のことは、すべて本人に任すべきである。

受けた真理を活用するかしないかは、ひとえに本人の責任であり、われわれが干渉すべきではない。
われわれの役割は、時期のきた人に真理を伝えるまでである。

一人ひとりの人間が、霊的真理を受け入れ努力して成長の道を歩むよう、霊界によって導かれている以上、われわれの為すべき愛の行為は  『一人でも多くの時のきた人に真理を伝える』ということである。霊的真理の種蒔きが、われわれの為すべきことなのである。

                                  

                    霊的世界とのストレートな交わり(瞑想・祈り)

ずれの霊界通信でも、瞑想や祈りの重要性が説かれている。
古来より多くの宗教では瞑想・祈りが為されてきたが、それは体験を通して祈りに霊的効果があることが知られていた為である
 

さて、そうした重要な祈りを実践しようと思うと、いろいろな疑問が湧いてくる
「具体的にどのように祈ったらよいのだろうか?何を祈ったらよいのだろうか?」「果たして、自分の祈りは正しい祈りなのだろうか? ムダな祈りではないだろうか?」

ここでは霊的真理に照らして、祈りの意義と、正しい祈りとはどのようなものかを見ていくことにしよう。

                            

                     Y何のために瞑想・祈りをするのか 
 

上で肉体をまとって生活するということは、重い鎧のような着物をきて運動をするようなものである。

また潜水服を着て水中深くもぐって作業をするようなものである。つまり、肉体の鈍重さの中で霊本来の姿を発揮できないということである。

地上において魂を成長させるには、この肉体(物質)の壁を打ち破り、霊の意識を心の中心に置くこと(霊主肉従)がまず第一に為すべきことであった。霊主肉従でないかぎり魂の成長はあり得ず、動物と同じ本能だけで動く存在となってしまう。

こうした、霊を束縛する肉体からの刺激を遮断して、霊の意識を前面に出す特別な時間が、瞑想・祈りである。

古来より、いろいろな瞑想法が説かれているが、自分に合ったものを見つけ出すことが大切である。

ただし、あまり凝った瞑想法は必ずしも必要ない。瞑想の目的を達するなら、どんな方法でもよいのである。
 
多くの場合、日常の生活の喧噪から離れ、一人静かな環境の中で目をとじ視覚的な刺激を遮断するだけで、たちまち意識が霊本来の世界へと向くようになる。

こうした静寂――心の落ち着いた状況に至れば、守護霊・背後霊は影響力を行使しやすくなる。
祈りによって心霊レベルがアップすれば、その分だけ霊と霊の共鳴度が高まる。

『日常の物質意識を中断して霊的意識を覚醒すること』『心霊をアップさせることによって守護霊・背後霊との共鳴度を高め霊界からの援助・影響力をより強く受けられるようにすること』――この二つの点に、瞑想・祈りの効果は言い尽くされる。

瞑想は日常意識遮断・意識集中化という面が強くなり、祈りの前段階・準備段階ということになる。 


                                   
                       Yなかなか意識が集中できない時には
 
目をとじた瞬間に日常の雑念が消え、霊的意識がたちどころに戻るなら、それが理想だが、現実にはなかなかこのようにうまくいくとは限らない。

日常生活でのストレス・心配ごと・精神的疲れが強ければ強いほど、意識の切り替えは難しい。

このような時、無理に瞑想・祈りに入っても雑念に翻弄され集中できないまま、だらだらと時間が過ぎ去っていくだけである。

そのような時は無理に瞑想することよりも、霊訓等、霊的真理をじっくり読むのがよい。

真理はもっとも強力にわれわれの心を霊的世界へといざなってくれる――やがて霊本来の意識が取り戻されるはずである
 
このようにして心がスッキリしたら、その時点で、すでに瞑想の効果の大半を得たことになる。

さらに霊的世界に触れたければ、そこで祈りに入っていけばよい
驚くように意識は吸いこまれて、グングン深い世界へ入っていくはずである。もし真理を読んでも心が晴れない時は、次のようないろいろな対策を講じるとよい。要は霊主肉従のための戦いである。

そこでは、戦おうとする気迫が決め手となるのである。心がスッキリし日常意識がふっきれるまで、あきらめずに努力し続けることが必要である。 


  ・ヨガ・呼吸法などをする

  ・心を静め高める良い音楽を聴く

  ・自然散策・散歩などをする

  ・運動をして汗を流す

  ・霊的にスッキリした人と会って話をする

  ・水浴・断食などをする

気力をもってこれらを実践してみれば大きな効果を得られるだろう。
こうした方法は霊主肉従を促し、広い意味での瞑想とも言えるのである。

                               

                                   Y何を祈るのか
 
祈りとは「神に向かっての率直な語りかけ」である。瞑想が物質的刺激遮断・霊的意識の集中を目的とするのに対し、祈りは神に向けての働きかけであり、直接的な霊的触れ合いを求めることである。

神の懐に飛び込むことである。われわれの祈りは、神にストレートに届くのである。
祈りの方法は基本的には人間に語るのと同じようにすればよい。
一人の人間に向かって話しかけることと同じで、完全に一対一の世界”――神と私の二人だけの世界ができ上がる。

さて、神も守護霊も、祈るわれわれの心のうちをすべて知っているし、一人ひとりの魂の成長にとって必要なもの――因縁も、今後どのような人生を歩むかも知っている。

このような相手に向かって、「一体、何を祈ったらよいのか?」ということになる。自分のすべてを知っている相手に対し、「わざわざ祈る必要はあるのか?」ということになる。が、祈りは極めて有意義な霊的実践である。確実に神との霊的触れ合い、絆が深まるのである。
 
神に祈って良いことと悪いことがあるのは明らかである。
自分に都合のいい御利益、魂の成長とは無関係なこと、因果律を無視したような身勝手な祈りはしてはならない。
そのような祈りは、われわれの魂の成長だけを願って導いてくださっている、神・守護霊に失礼にあたる。 

御利益的祈りが実に愚かしいもの――それどころか魂の成長にマイナスになるだけのものであることは明らかである。
間違った祈りは、霊的真理に対する無知から生じる行動であり利己的な要求にすぎない。そのような祈りを、神・守護霊がまともに受け取るはずがない。

悪霊のからかい・いたずらの絶好のチャンスとなるだけである。正しい祈りとは、霊的真理を正しく知った上でのみ為し得ることである。


次に、どのような祈りをしたらよいか具体的にまとめてみよう。

真理に添って、もっと自分の心を成長させたい。だからその道を援助してほしい。

魂成長のための苦しみに、耐える力を与えてほしい。

自分の醜い心をなくし、弱い心を強くしてほしい。 

自分の心に、もっと深い愛をやどらせてほしい。

まわりの人々が、少しでも早く真理を受け入れ幸せになってほしい。

時期のきた人に出会わせてほしい。

もっと人々のために働かせてほしい。自分を道具として役立ててほしい。

 
こうした純粋な祈りなら、神・守護霊は聞いてくださる。「人の役に立ちたい、奉仕したい!」という心からの願いは、地上に神の道具となる人間の出現を待ち望む高級霊達を引きつける。法則の上で、霊界が必ず導き・援助をしてくれる。

特に声を出して(小声で)祈ることはいっそうよい。声に出すことで自分の考えていることが明確になり、祈って良いことと悪いことの区別もしなければならないので、おのずと自分の姿勢もしっかりしてくる。

祈りに際しては自分の心を真理で整理しなければならないし、それだけで、自分の思い・願い・意志の中の不純さが払拭されるようになる。

                                 

                         男女愛・結婚愛・同性愛

一般の地上人にとって、恋愛・男女愛は最も魅力的で刺激的なものである。
ロマンスを題材にした多くの文学・芸術作品が生まれ、男女愛は常に地上の人々の情熱と夢をかき立ててきた。

しかし、こうした地上人の見方に反して、霊界人の恋愛・男女愛に対する評価は全く異なる。
地上の恋愛・男女愛を無条件に良いものとし、それを勧める高級霊は一人もいない。霊界にも男女愛はあるが、その愛の中身は地上のものとは全く異なっている。
霊界における男女愛と地上における男女愛は似ても似つかぬものである。高級霊は「地上には真の男女愛・性愛はない」と言う。
 
ではどうして、地上における恋愛・男女愛が霊界人の認めるものとならないのであろうか。
それは地上の男女愛の多くが利己性の上に成り立っているからである。

特に激しい恋愛の相は独占欲・支配欲とも言うべきものであり、必ず嫉妬を生み出す。
これら独占欲・支配欲・嫉妬が利己的感情・本能的感情であることは明らかである。


相手を愛すると言うが、実は相手を自分のものにしたい、ということにすぎない。
または、自分の理想や好みを相手に投影して、勝手に幻想を愛しているのである。

それはある面では純情だが、要は自分の好みだけを愛している――自分のつくり出した好みだけを愛していることにすぎない。
醜いもの、好みでないものを全て含めて有りのままに受け入れるという、本当の愛ではない。

地上では恋愛感情・男女愛が強ければ強い程、それに比例して利己的感情・本能的感情である独占欲・支配欲・嫉妬が強くなる。
そして地上ではこうした利己的感情も同じという言葉で語られる。だが、そうした利己愛から魂が成長することはない。

 
霊界にも男女愛や結婚もあるが、それは具体的にはどのようなものなのであろうか。

まず、地上時代のような肉体はないため、性欲・セックス欲はない。そして前述したような「相手を自分だけのものにしたい」というような欲求はない(これだけで、すでに地上における男女愛の要素はほとんどなくなっている)。
霊界における
霊的交わりは、純粋な気持の共鳴・利他愛の上においてのみ為される。

さて、たまたま魂のレベルが同じであり同類魂に属することができる場合、一緒に生活を送るようになるが、その間二人の心のうちにある関心は、地上時代とはすでに全く異なったものになっている。

男女とも魂の
成長のみが最大の関心事になっている。
相手に好意を持たせようとか、相手の心を自分に引きつけようといった地上的な低俗な意識はない。

ゆえに相手に対する感情も、地上の親友に近いものへと変化している。
結局は、お互いがお互いの魂の成長にプラスになる場合のみ一緒にいる、ということになる。

もし一方が成長した場合、別の世界へと巣立ち別々の界層に住むようになるが、その際も地上のような別れの悲しさはない。

相手の成長が自分にプラスの勇気や意欲を湧かせるし、また相手の成長を心から願うため、自分の配偶者の成長は自分の喜びとなるからである。
 

地上の夫婦関係はセックスを土台としており(セックスなくして夫婦関係を維持することは少ない)――「お互いに霊的成長をしよう!」という共通の方向性を持っているカップルはほとんどない。
またお互いが地上だけの視野でしか人生を考えず利己的歩みを中心としている以上、死後霊界において、そのまま夫婦関係を維持することはほとんどあり得ない。

霊界には地上のようなセックス(肉体的交わり)はないが、それに類する男女の交わりはある。

これは純粋に、霊的交わり・気持の共鳴・利他愛の交わりであることは言うまでもない。

まず類魂中の男女の関係は地上のものとは異なり、しいて言えば、親友間における友情のようなものである。

そうした男女間の愛の交わりは、地上のセックスの喜びとは比較にならないほど刺激的である。

この男女の交わりは自由自在・無制限に為され得る。決められた一人の異性との間だけに男女愛が成立するわけではない。
(こういう言い方をすると、地上の
観点から見れば、自由恋愛・無節操な交わりのように思われるかもしれない。しかし大前提である自体が、地上とは全く異なるのである)

霊界においては、異性愛より、どこまでも魂の成長が重要なのである。霊界では、こうした異性愛を通じても魂を成長させることができるのである。
地上のセックスには二つの目的がある。一つは、言うまでもなく生殖のためである。これを通じて新しい霊が誕生するようになる。

二つ目は、自分のすべてを与え合いすべてを共有するという、絶対的利他愛の地上での象徴的実現の意味がある。
この事実を通じて、人類は、完全に与え尽くすという利他愛を学ぶのである。
地上のセックスがもしこうしたレベルにおいて為されるならば、地上にあって宇宙的な喜びを持てるようになるのである。

これは女性が子供を産み、母親となり、母性愛を持つようになることに似ている。
母性愛によって母親は、自分のすべてを一人の人間のために与え尽くす絶対的利他愛を学ぶのである。

地上の続きである幽界においては、ほんのしばらくは地上と同じ夫婦関係・家族関係を保つことはあり得るが、霊界に入るに際しては各自の魂の成長レベルの世界へと引かれ、それに伴い夫婦はバラバラになる。

たとえ地上時代、仲の良いおしどり夫婦と呼ばれるような関係であっても、魂の成長レベルが違えば、今述べたように一緒にいることはできなくなる。
要は、魂の成長ということが何よりも重要なのである。

もし一方が高い世界に入った場合、相手への思いやり・愛があれば降りて行って会うこともできるが、すでにその時には地上時代のような男女の愛はない。
相手の成長を願う、親のような、兄、姉のような愛があるだけである。
真の愛がある時のみ、一緒に住むことはなくとも、引き合い、会うことができるのである。
 
地上の激しい男女愛は利己性の発現であり、その利己性のつけは必ず返ってくる。
死後、霊界に行ってから、それが魂の成長にマイナスとなっていたことに気づき、後悔という形で苦しむこともある。

が、多くの人間は、地上において恋愛感情が冷めた後の倦怠・不満・嫌悪という形で苦しみを味わうことになる。

恋愛感情が激しければ激しいほど大きな苦しみが生じてくる。そしてその苦しみを通じて恋愛というものの空しさ・虚偽性を知り、真に人を愛することを知るのである。真の愛とは――『利他的であること、尽くすこと、自分の感情を乗り越えること』であるとの悟りに至れば、その苦しみは霊的自覚を促すという大きな役割を果たしたことになる。

本当の愛で人を愛する歩み――“真の利他愛実践の歩みがそこから始まるのである。
自分にとってイヤな人、好みでない相手に対しても、愛する努力をし、尽くすことができるようになった時、初めて霊的人生・魂成長の人生を歩み始めることになる。
 

霊界における愛とは、地上時代の恋愛のような激しいものではなく、静かで深く与え合う行為なのである。霊界における共鳴度とは、こうした過程をへてつくられた愛の分量による。
本物の愛の分量に応じて霊界での絆が決定するのである。恋愛感情のまま、地上の男女愛のままであれば、
霊界ではバラバラになる。

単に結婚したということで魂は成長するのではない。
地上的男女愛が冷め、新しい利他的努力を始めることで、本当の霊的成長のための出発が為されるのである。
霊界においては例外なく、誰もが魂の成長を第一に願うようになるのである。

 
このように永遠の死後の世界までを含めて地上世界の結婚を考えると地上における結婚は、それほど大きな意味を持っていない

一人ひとりが魂を成長させるということの方がより重要であり、優先されるべきことなのである。
そうした霊界の事実に立って努力を始めた時、結婚生活も魂の成長という目的に添ったものとなっていく。


先にも述べたが、地上時代のカップルの大半は霊界ではバラバラになってしまう。
しかしその中でも、地上時代、真に霊的成長を為すような利他的世界・愛の絆をつくった場合のみ、霊界においても引き続きその関係が保たれるし、必要なら会うこともできる。
ただし、それはもはや地上人の考えるような男女の関係ではなく、親友に近いものである。

以上が、大半の地上人の男女愛の行く末である。
 
ただ例外的に、こうしたケースとは異なるアフィニティーと言われる特殊な結び付きがある。

前述した一般的ケースは、二人の別々の男女が地上で一時的に夫婦となるというものであったが、初めから同一類魂の二人(二魂)が、地上に誕生して引き合い夫婦となる場合がある。

この二つの魂は、霊界における類魂(グループソウル)の中にあっても特に親しい関係(男女一対魂)にあるが、それが地上に同時に再生する場合、形態が男女として二つになるが、霊(霊的単位)としては依然一つであり、同類魂を形成し続けるのである。

そのためこの二魂は、常に一対・一単位として、その後もずっと同じ進歩の歩みをしていくようになるのである。

こうしたアフィニティー同志が、地上に同時に誕生し出会うということは、めったにない出来事であるが、大きな使命を担った場合、時として実現することがある。

またアフィニティーの一方が霊界にいて一方が地上にいることもあるが、それでも霊的には常に一体である。地上にいる相手は肉体をまとっているためそうした霊的事実を自覚できないが、霊界に入ると、男女一体としての生活が始まるようになる。


                                     


                               ^ 地上人の結婚について  
 
地上人生においては魂の成長ということが最も重要であり、一つひとつの行動や営みの善し悪しは本人の動機によって決められる。

結婚についても、こうした観点から考えていくべきである。
つまり、結婚するかしないかが第一に大切なことではなく、それ以上に、その結婚によって魂の成長が為されるかどうかが重要なことなのである。

人々の中には一生を独身で通す人もいる。この一生独身を通すということは、動機によって善いことにもなり悪いことにもなる。
「自分の魂の成長と、より清らかな霊的世界を求めるために独身を貫きたい! より多くの人助けのために独身を通したい!」というのであれば、一人で歩むその人生は有意義なものとなるであろう。

概して、このように純粋な動機から一生を独身で通したいと望んだり、宗教者・修道者の道を歩む人は、この地上界に生まれる前にそのように決心して来ていることが多い。

そのような人は、地上の結婚というプロセスを踏んで為すべき魂の成長を、すでに修了していて、奉仕に専念するため独身の人生を歩んでいるかも知れない。

独身主義が広まると人類が絶えてしまう、というような心配は無用である。必要な人間は必ず生まれるようになっている。

すべての人々が、地上の結婚生活は必要ない、というほど成長しているわけではない。
地上に生まれる大半の人々は、やはり地上での結婚生活が魂成長の一つの道となっている以上、独身主義が全人類に行き渡ることはない。
 

奉仕のために独身の人生を歩む人間とは対照的に、「一人でいる方が気楽、面倒がない。気ままで好きな事ができる。
結婚はうっとうしい」という様な身勝手な動機から独身を通す人もいる。
が、その人は、実は地上人生における一番大切なもの(魂成長のための苦しみ)を、自ら手離している哀れな人である。どんな理屈をつけても、それは「人生を本能的に生きたい」というだけのことである。

また自分の好みの相手がいないという人もいるが、それは自分の思い上がりか、人生に対する単なる臆病さにすぎない。

大半の地上の人間は、結婚生活という窮屈で苦しみの多い生活の中で成長するものなのである。

結婚生活をすれば否応なく、自分だけの人生、一人勝手な歩みをすることはできなくなる。
そして、その窮屈さによって利己性が打ち砕かれることが多い。
また子供を生むことによって、無条件に人の面倒を見る――
自分のことを後廻しにする生活へと追いやられる。

が、このことが、どれほど魂の成長にプラスとなるか知れない。ゆえに、霊的真理に照らし合わせてプラスとなる(利他的奉仕を求める)独身以外は、結果的には結婚した方が良いと言えるかも知れない。

逆に形だけの結婚生活を続けることが、霊的成長のためにマイナスとなっていることも多い。
社会の人目を気にして外側だけ取り繕う結婚生活は、単なる自己保身・見栄であることが多い。
動機によって独身で通すことの善し悪しが決められるように、離婚も動機によって善し悪しが決められるのである。
 
結論を言えば、結婚はしてもしなくてもどちらでもよい。結婚するかしないかが第一の問題ではなく、「何のために結婚するか?」という動機が問題なのである。が、その結婚の善し悪しの判断を下せるのは、「魂を本当に成長させるにはどうしたらよいか?」ということが、はっきりと分かる人間においてのみ言えることである。
苦しみが魂の成長にとって大切であることを知った人のみが言えることである。

地上的・物質的な視野からは不幸と見える結婚生活によって必要な窮屈さ苦しみを
体験し、魂の成長を得る人もいる。
逆に、この世的な幸福な結婚によって、魂の成長を得られない人もいる。

                                      


                                ^ 同性愛について  
男性が女性として、また逆に女性が男性として、再生人生を送ることはよくあることである。
これは人間としての魂の成長が、性別より、はるかに根本的で重要なものであることを示している。

さて、現代の社会問題の一つに同性愛がある。これについて、どのように考えていくべきであろうか。聖書をはじめ禁欲主義を重要視する宗教では、同性愛は当然認められるべきことではない。

この地上は全存在が陽陰から成立しており、このバランス・調和の上で存在している。
とは言っても、陽的存在であれ陰的存在であれ、完全な陽陰だけの要素から出来上がっているわけではない。
相対的に陽的要素の多いものが陽性(男性)になり、相対的に陰的要素の多いものが陰性(女性)になるのである。
その意味で、完全に男性的要素だけの男、女性的要素だけの女はいない。結果的に男性的要素が多い人間が男であり、女性的要素が多い人間が女、というだけのことである。

しかしその一方で、地上の全存在は陽的存在か陰的存在かのいずれかに属するという、明らかな男女間の不動的一線をも与えられている。

男性は初めから男として生まれ、この性は一生変わらない。
男は男としてこの地上人生を送るように定められ、外形もそのように固定化されている。ゆえに地上においては、男は男として生き、女は女として生きることが本来の在り方である。
男として生まれたら男として生きることが自然なことであり、性転換手術で男が女になろうとすることは本質的に間違っている。


最近は、ホモについての地上的原因
も少しずつ解明され始めている。

大脳の仕組みは男と女では異なっているが、ホモの場合は、その大脳の形態が女性的であるということが確かめられている。

また、妊娠中に母親がショックを受けホルモンバランスが崩れ、これが原因となって両性的になるということも言われている。

こうした研究によれば、本人が気がついた時はすでに同性愛者であったということであり、それ以前に人間として意志の関与はできないと言えるかも知れない。

「何も好きで同性愛者になったのではない」という言い分も成り立つ。

また女性が男性として再生すれば、当然、その地上人生中は女性的な男性になるであろう。

しかし原因はどうであれ、この地上に男として生まれ、女として生まれてきた以上、男が女に惹かれるというのが自然な成り行きである。

同性との間でのセックスに惹かれるということは異常である。
大半の当事者は、それを苦しみ・ハンディとして感じているが、それでよいのである。
ごく自然に異性を求める大多数の人達と比べれば、正常性を保つのにより多くの苦しみを必要とするであろうが、そこに同性愛者というハンディを持って生まれたことの意義があるのである。


魂の成長のために苦しみの体験が必要であることを述べたが、この問題も魂の成長という点で考えるべきである。すべては霊的視点のもとで判断すべきことなのである。 

同性愛を認めることは肉主霊従を正当なものとして認めることであり霊主肉従のための努力の必要
性を否定することである

原因は何であれハンディがあるということは、『より多くの苦しみを乗り越えて、より多く成長しなさい』ということなのである。
人間的同情に流され、不自然さを良しとすることは間違いなのである。

苦しみの意義を知って耐え、戦い、清さを保つことによって、同性愛者として生まれてきたことが意味を持つのである。
『苦しみには大きな意義がある』――という霊的観点に立ってこの問題を眺めてこそ、当事者の人格を最大に尊重することになるのである。

                              

                                  動物・ペット

愛するペットは死後どうなるのだろうか。
愛するペットと霊界で再会できるのだろうか。
結論を言えば、愛をもって可愛がったペット(死別を
悲しむ程の)は、あなたが死んで霊界に入った時、必ず迎えに来てくれるだろう喜ばしい再会は約束されている。悲しみは不要である。


                             
                          ^ 人間と動物の違い 
 
人間は神によって、永遠の存在――“個別性を持って永遠に生きる存在として造られている。
私という存在は永遠の私であり続ける。
神の中に融合して、私がなくなるようなことは決してない。

が、動物はこの点では人間と全く異なっている。
地上生活中、動物は肉体と幽体を持っているが、人間のような霊体はない。
そして死後は幽体のみとなるが、地上時代に人間からの愛を受けた場合のみ、この幽体の形態がしばらくの間維持される。
そして飼い主が幽界に入ってくるまで待ち続ける。
だから、かわいがったペットとは必ず再会できるようになる。

もし人間の愛がない時は、死とともに生命(霊)は、動物の類魂(同種類の動物の生命素の集合)の中に吸収されて個性を失う

ゆえに再会は飼い主の愛ひとつにかかっているということになる。幽体として存在するか否かは、人間の愛によって左右されるのであり、その意味で、人間は神の創造性の一部を代行しているとも言えよう。

人間と動物は幽界で再会するが、人間が幽界の生活に慣れ霊的進歩の歩みを始めるにつれ、動物への愛も自然と薄らいでいく。それと同時に動物の幽体の形態は分解して、霊(生命)は類魂の中に吸収されていく。
 
地上にいる生命体の中で、人間のみが神を知ることができるように造られているし、そのための特別な知性を与えられている。

この点でも人間は動物とは全く異なった存在なのである。
動物にもある程度の知性はあるが、それは物質領域・本能領域のみのものであって、神を知るという高次元のものではない。

動物の意識は常に本能の枠内にあり、その本能は法則によって支配されている以上、動物には本当の意味での自由意志はなく、当然のこととして、自由意志に基づく因果律の適用を受けることはない。

自分の行為の過ちを自分で償うということは動物にはないのである。人間だけが自由意志を持ち、自らの行為に対する因果律の適用を受けるのである。
 
人間のみが神を知り、神の愛を受けられるということは、人間が他の動植物に対し――これらを「神に代わって愛するように」との役割を与えられているということである。

人間はその知性ゆえに他の動植物を一方的に支配する力を持っているが、それは「愛において支配すべし」という神の計画なのである。

第二の神”――肉体を持った神として動植物を愛し、神に代わって愛を与えなければならないのである。動物の個性化を促し、進化を促すという使命が与えられているのである。

地球上全体を愛と調和に富んだ環境にするような責任を、神によって与えられているのである。
地上の全生命体(動植物)は、人間から愛された分だけ進化することができる。

人間から愛されることによって、神の愛を間接的に受けられるからである。

また人間は、他の動植物を愛することで、今度はその動植物から愛されるようになり、喜びを得ることになる。
そして地球上に愛の世界が広がっていく。だから動植物を愛してかわいがる人であればあるほど、より多くの愛の喜びを持てるようになるのである。

このように、動物も人間の魂の成長に重要な係わりを持っているのであり、大きな次元から見れば、人間と動物はともに神の被造物として協力して進化し、愛の世界を拡大していく存在であると言えるのである。 

 
                                     
                                 ^ 動物への虐待 
 

そうした動物に対する人間としての本来の在り方に比べて、今日、地上で行われている虐待は目を覆うばかりである。

いずれの霊界通信も、地上の人間の動物に対する非道を声をそろえて非難している。動物愛護の運動が霊界でも行われ、地上の愛護団体に対して全面的な協力が為されている。

霊界通信が、特に動物への虐待として挙げるものは次の三つである。
 
@`狩猟のための殺害(楽しみで動物の生命を奪う)
   動物に生命を与えたのは神であって人間ではない。
   人間にはその生命を奪う権利はない。まして自分の楽しみのために動物を殺すとなれば、霊的視点から見れば、殺人と同じ   罪を犯していることになる。

A` 食用のための殺害(ブロイラー・動物肉の工業製品化飼育)
   食用のために動物の生命を奪うことや、それを食することは罪である。現在ごく当たり前のこととして行われている肉食が、    気違いじみた行為・習慣として認識される時が将来必ずやってくる。
   現実的には動物の肉を食料としなくても、人類は何ひとつ困らない。
   食料を得る方法は他にいくらでもあるからである。

   霊的真理の普及と同時に、自然に菜食主義者がふえていくようになる。現在家畜用のエサになっている穀物を人類に回せば   地球上の飢えの問題は直ちに解決する。神は、地上の人類が誰ひとり飢えることがないだけのものを、常に与えてくださって   いる。このことから考えても、肉食は本質的に間違っているのである。 

B` 動物実験
   医学発展という名目のために動物が生体実験の材料にされているが、そうした方法で人間が本質的な健康を勝ち取ることは   できない。そもそも動物の生体実験は、間違った唯物的医学観に基づくところから派生する誤った手段なのである。 

   生命を持つという点で、人間と動物は同じ価値を有する平等な存在である。霊的観点から見た時、動物の生命を奪う権利は   人間には与えられていない。これが動物に対する時、人間の知っておくべき基本的考え方である。

   が、霊界通信では、現在の地上の人間がいまだ霊的に未熟なレベルであることを考慮し、「今すぐ肉食を止めるべし」との強   い言い方はしていない。肉食習慣の罪悪性を自覚した人から、「自分の意志で止めなさい」と勧める程度にとどめている。ま    たは罪悪性のわずかでも少ない次善の方法を示すにとどめている。
   人類の中に霊的真理が行き渡れば、今述べた動物の虐待は自動的に根絶されていくからである。
 
   動物に対する姿勢は、要は、その人間の霊的成長度によって自然に決められるものである。
   霊的真理を知り、真に動物を愛する人は肉食はしなくなる。

   自分の可愛がっていたペットの死体の肉を食べることのできる人間はいないであろう。
   自分の愛するペットが動物実験に利用され、七転八倒苦しむのを平気で見ていられる人間はいないであろう。
   ペットを飼いながら一方で肉食をするという大きな矛盾は、ペットに対するせっかくの愛の行為のすばらしさを打ち消してしまう   ことなのである。

   動物を虐待するということは、霊性の低さを示しているのである。
   動物に非道な人間は、人間に対してもやはり非道なのである。要は愛がないということなのである。

 
                                      
                                     ^ 動物の進化  
 

人間と違って動物には再生はない。一度きりの物質界への誕生があるのみである。
その一度の体験を類魂に持ち帰ることで、類魂が全体として進化していく。
それについて決定的な影響力を持つのが、人間の動物への愛であることはすでに述べたとおりである。

人間は個別的存在として一人ひとりが独立した単位であり、それゆえ一人ひとりに因果律が働く。

が、動物には人間のような因果律は働かず、類魂全体に対する法則の支配があるのみである。
動物の霊は、類魂全体として進化していくのである。
 
動物の類魂がさらに進化したあかつきには、どうなるのか?――ということについては霊界通信でも意見が分かれている。

進化して人間の霊に近づき、やがて地上に生まれて、個別化した人間の霊としてのプロセスを歩む(動物の類魂人間霊個の人間)とするものと、動物のは固定されていて、どこまでも人間は人間、サルはサル、イヌはイヌであって、動物から人間へという進化の道はたどらない、と言うものに分かれる。最終的な結論は出ていない。


動物の類魂として一番進化しているのはイヌで、次はネコであると言う。それは人間の愛をより多く受けたためである。

一般にはサルがもっとも進化していると思われがちであるが、それは肉体という外形態による判断であって、霊的に見るとそうではないようである。

ここにも――『愛こそ、生命の本質である』という、真理の一面をうかがうことができる。
また人間全体の霊的レベルが高まれば、それは動物界にも反映し、動物の残虐性・弱肉強食性自体にも変化が生じてくる、と述べている。

                            

                    身近な者の死・葬式・墓について
                   身近な者の死
霊界通信を読み、理屈の上では死後の世界の実在について知ったものの、いざ身近な者の死に臨むと、ついつい回りの人々の嘆き・悲しみに巻き込まれてしまうものである。
が、その状況こそ、霊的真理を知ったことの真価の見せどころである。霊的知識を実際に生かす時である。

霊界の住人にとって地上人の死は悲しむべき出来事ではない。
それどころか、むしろより大きな自由を得る時――肉体の重苦しさから解放される喜ばしい時であると断言している。
事故死などは、霊的真理を知った者においても、つい不幸のごとく考えてしまうものである。

が、すべての死はすばらしい人生の出発なのである。地上にいる者は、霊体だけになって新しい出発をした故人に対し、楽になったことを心から喜び祝ってあげるべきものである。

たとえその死に方がどのようであれ、さしたることではない。霊体だけになって、肉体の苦しさから解放され、喜びに満たされている当の本人が目の前にいるのである。
 
もし身内の死に出会って悲しいと思うなら、それは真理を十分体得していない証拠である。

真理に添ってすべてを考え判断するように努めるべきである。真理を知らず、地上的な目でしか死をとらえることのできない一般の人々と同様な、間違った感情発露は克服しなければならない。高級霊がいとも簡単に、「死ぬことがどうして悪いのですか?」と言うように、同じようにあっさりと死を眺めるべきなのである。 

もし、その人の死について悲しむべきことがあるとするなら、それは故人が生前、死後の世界のあることを知るチャンスを得ながらそれを認めなかったり、地上人生の最後まで霊的自覚を持てず、地上人生をムダに送ってきたことに対してのみそうすべきである


                                                  
                                           Y 葬式

葬式とは本来、不自由な肉体を脱ぎ捨て霊界へ旅立つ人を送る喜びの式である。
あの世へ出発する人へのはなむけの式・祝福の式である。が、地上世界の現状はそれとは逆に、その人の死を悼み嘆く場となっている。

本人が楽しい喜びの世界に入ったのに、それを知らず嘆き悲しむ葬式の様子は、霊界の実情を知る者にとってはコミック以外の何ものでもない。別れの式としての葬式はやる必要はない。
 
さて、葬式の時の霊界側の実情を述べるなら、当事者である霊は、自分の葬式に参列することが多い。霊的真理を知らず、死後の世界の自覚ができない者は、大半が自分の葬式を目の当たりにするようになるが、その時その霊は、何が何だか分からない戸惑いの状態に陥る。

また時には相続人たちの集まりにも出席することがあるが、そこで展開する遺族の醜いエゴの争いを通じ、地上時代のお互いの人間関係の空しさを実感するようになる。が、これは、本人が自らつくった罪の償いの一環としての意味もある。
 
また、霊的に未熟な霊が、肉体から離れるまで地上の期間にして三日ぐらいかかることがある。ゆえに火葬に付すまで最低三日間ほどの期間を置くのがよい。いまだ生きているつもりの霊が火葬の火にショックを受け、その後の処置に余分な手間がかからないためである。

                                      

                                          Y

遺体は古くなって脱ぎ捨てた衣服のようなもので何の価値もない。
まして未練を持つようなものではない。
墓は単なる古着の捨て場・骨の捨て場にすぎない。だからどこに墓を作ろうが、どのように葬ろうが全く構わない。

もし死後、霊が出現して、墓についてあれこれ注文をつけてくるようなことがあるとすれば、それはその霊の未熟さ・霊的自覚のなさを示しているにすぎない。あえて相手にする必要のないことである。

が、地上にいる子孫や友人が命日などに墓参りをし故人を思い出せば、その念は霊界にいる霊に届き、墓場にいる皆の所へ引き寄せられるであろう。

もし墓参りの人々から何の愛念も送られなければそこに引かれることはない。
地上人が強く思えばその念は霊界にいる霊に届き、喜びを与える。そして低い霊の場合は、この念が当面は唯一の慰めともなるであろう。

が、その霊が成長する為には、そうした地上人からの慰めをいつまでも求めたり、地上への未練を持ち続けてはならないのである
霊本人に霊的自覚が芽生えれば魂成長の道だけに意識が向くようになり、地上への関心は自動的に消滅する。

                                   

                     Y 先祖供養に付いて

すでに亡くなった知り合いや先祖が夢の中に出てきたり、霊媒に乗り移り、死後の生活の苦しみや地上への思い残し・恨み・後悔を訴えてくることがある。

また自分の位牌や墓について注文してくることもある。時には、「これまでの家のゴタゴタや災難は自分が引き起こしてきた……」などと言ってくることもある。

そこで地上にいる子孫が、その希望通りに墓を作り替えたり位牌を作ったり供養をしたりすると、これまでの怪奇現象がピタッと止まる。

こうした話は、われわれの身近に数多く存在する。そのため先祖供養は大切なもの、子孫としての義務である、というような考え方が広く行き渡った。

が、結論を言えば、この先祖の霊は、未熟さと無知のままで幽界の低いレベルにとどまっている、ということである。

いわゆる地縛霊に近い状態にいるのであり成仏できない霊なのである。霊界の生活になじみ、そのすばらしさが分かり、自分にとって魂の向上だけが大切であることが分かれば、地上に対するこだわり・未練は自然になくなってしまう。
地上のことは忘れて霊界での魂の向上に専念するようになる。

先祖が、いまだ正しい自覚の持てない状態に堕ちている原因は、地上時代における間違った考え方・歩みにある。

一方、地上にいる子孫も同様に霊的事実には無知であり、先祖の霊の言い分をまともに受け取ったり、間違った同情をかけたりするため、さらに地上への執着を大きくしてしまうのである。 

先祖を救おう引きあげよう、という気持ちは純粋そのものであろうし、立派な心がけであろうが、

霊的事実・霊的真理を知って正しく対処しないかぎり、先祖を救うことは不可能である。

一番の先祖供養――すなわち、霊的自覚が乏しく地縛霊としてとどまっている霊を救う道は、何よりも子孫が

『霊的真理を言い聞かせてあげること』である。

もちろんこれには、先祖の霊自身が霊界で何らかの苦しみを持ち、聞く耳ができているということが前提である。

その時期がくるまでは放っておくのが一番の方法である。

霊界では当然、その堕ちた先祖を救うべく救済の手段が講じられ、救いの霊も派遣されて、働きかけるチャンスをうかがっている。

われわれ地上人が直接教えてあげなくとも、霊界の人々によって教えられていく。

ゆえに地上人はその手伝いをするというほどの意味合いである。

自分がすべて説得して分からせよう、という力みはマイナスである。

もし直接語りかけるチャンスがあったら、次のように教え諭してあげればよい。

また心で念じればよい。「いつまでも地上のことを考えず、自分の魂の向上に心を向けなさい。すぐ近くに導きの霊がいるから、そ

の方の指示に従うように……」これが受け入れられれば、その瞬間から地上の霊障はなくなる。

本来、先祖供養というものは必要のないものなのである。 

また地上の子孫が霊的真理に添った生き方をすれば、それによって霊界にいる先祖の霊も自覚が促されよう。

地上の子孫が一生懸命に霊的真理を学べば、霊界にいる先祖の霊も間接的に学ぶことができるようになる。

さらに大切なことは、たとえ先祖の霊が迷っていても、相手の言い分をう呑みにしないという強い姿勢が必要である。

相手がどんなに寂しく思っても、それは当人にとって自覚のために必要な苦しみとなっているのである。

と同時に、地上に霊障が引き続いて起こっても、それを自分達に必要な苦しみとして受け止めることが大切である。

第一部第七章因果律の項参照)
 

 
Y 先祖崇拝

先祖を崇拝する文化的伝統が強い地域では、前述したような先祖にまつわる霊障・霊現象も当然のこととして多くなる。

地上の側から先祖の霊をたえず引き付けるからである。結局そうしたことによって、先祖の目覚めを遅らせることが多い。


必要以上に先祖崇拝をすることは、霊的事実に対する無知に他ならない。

過大な先祖崇拝は、地上の人間の見栄・エゴ・物質欲の上に成立している。名の知られた先祖がいれば喜び自慢する。

そして身分の低い先祖がいれば恥じ、それを隠そうとする。そこには各自の責任による魂の成長というような見方は全くない。

そもそも何をもって人間の本当の価値とすべきか、ということが全く分かっていないのである。

お金・名声・家柄・血筋といった物質的なもののみに価値を見出しているのである。

霊的な目で見れば全く取るに足りないものを自慢するということは、未熟さ以外の何ものでもない。

霊界では、その本人自身の魂の成長のみがすべてを決する。人は人、自分は自分である。
霊界へ行けば、地上の血族のつながり家族のつながりも、ほとんど意味を持たなくなる。
そうした地上的なものは一切なくなり、本人の魂だけが残るのである。
 
さらに霊界にいる先祖の立場に立って考えてみれば、先祖の名声を子孫が自慢することの愚かしさ・無意味さは、より明白になる

霊的人生をすでに歩んでいる先祖の霊にとって、地上時代における地位・名声・成功体験などは、実にとるに足りないものになっている。

霊界に行けば、地上における名声の多くは、むしろ恥ずかしいもの――“物質的観点による間違った評価であったことを悟るようになる。本人はもはや、地上の名誉などは忘れ去っている。

それなのに子孫がそれを自慢するとなると、先祖にとっては、恥ずかしいことをわざわざ引っぱり出してくるようなもので、身の置き場がなくなる。
 
地上人の多くは、霊的事実・霊的真理を知らないため、身近な者との死別を悲しみ、葬式や墓を大げさに考えてきた。そして、先祖供養・先祖崇拝といった従来の習慣を大切に守ってきた。
が、それらはいずれも霊界人にとってみれば、何ひとつ価値のあるものではない葬式や墓作りはやってもやらなくてもよいし、
どんなやり方であっても構わないのである。

だが、いまだ霊的真理に無知な人々がそれらにこだわっていても、高級霊は無理にやめさせようとはしない。

今は葬式や墓にこだわる地上人も、やがて時期がきて霊的真理を受け入れられるようになれば、自然とそういう無意味なことはしなくなることを知っているからである。

「いまだ幼くおもちゃが必要な時は、それで遊べばよい。
が、やがて成長してそれが不必要になれば、自ら捨てるようになる」――これが霊界人の考え方である。
 
《もしもセレモニーとか慣例行事を無くてはならぬものと真剣に思い込んでいる人がいれば、それを無視して止めさせる理由はありません。

わたし自身としては、幼児期を過ぎれば、幼稚なオモチャは片づけるものだという考えです。》        (シルバーバー)

     シルバーバーチって何?

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